<11>昭和30年 増える自動車、テレビにも胸膨らむ 北洋に挑んだ独航船「苫小牧丸」

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月18日
トラックに乗せられた馬。自動車時代の到来を象徴する光景だ(昭和30年)
トラックに乗せられた馬。自動車時代の到来を象徴する光景だ(昭和30年)
昭和31年開校の市立苫小牧自動車学校
昭和31年開校の市立苫小牧自動車学校
北洋漁業のために購入された苫小牧漁協の「苫小牧丸」(上)と乗組員(下)
北洋漁業のために購入された苫小牧漁協の「苫小牧丸」(上)と乗組員(下)
鳥越兼次郎・苫小牧漁協組合長
鳥越兼次郎・苫小牧漁協組合長
苫小牧の車馬保有台数の推移
苫小牧の車馬保有台数の推移

  

  終戦から10年を経た昭和30(1955)年。前年12月からわが国は、後に「日本の奇跡」といわれた高度経済成長期に入った。朝鮮戦争による特需景気で同28年後半ごろには戦前の経済水準に戻り、昭和30年度は、鉱工業生産をはじめとして実質国民所得、農業生産、消費水準など、貿易を除く各分野で戦前最高時を大きく上回った。翌31年の経済白書は「もはや戦後ではない」と締めくくり、この高度経済成長は一時期の停滞をくぐり抜けながら昭和40年代後期まで続く。これから見ようとする昭和30年の苫小牧は、この時代の始まりの中にある。

  

 ■変貌する街の風景

  

  「日本の奇跡」は神武景気(昭和29年12月~同32年6月の31カ月間)、岩戸景気(昭和33年7月~同36年12月の42カ月間)、オリンピック景気(昭和37年11月~同39年10月の24カ月間)、いざなぎ景気(昭和40年11月~同45年7月の57カ月間)と続き、昭和44年には、GNP(国民総生産)が世界第2位となる。これを持続させようとしたのが新全国総合開発計画であり、北海道第三期総合開発計画であり、苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画であった。「日本列島改造計画」と言った方がイメージしやすく、その申し子の苫東計画が紆余(うよ)曲折をたどるのは後のことだ。

  ともあれ、昭和30年の苫小牧。「神武」の景気の波は、このまちの市民生活にも現れ始める。一条通りや駅前通りの商店街がにぎわい、自転車は1戸に1台行き渡り、カメラは市民12人に1台のブームを呼んだ。翌年、札幌にNHKとHBCテレビ放送局が開設されるというので、金融機関の「テレビ積立貯金」が話題を呼び、既製品は値が高い(15万円ほど)ため「表町のSK電気商会の佐藤悟さんは自力でテレビ受像機の組み立て(9万円ほど)を始めた」と報じられた(苫小牧民報、昭和30年9月23日付)。

  王子体育館の建設が着工され、モーラップのスキー場建設が計画されたのもこの年。

  大通り(国道36号)では拡幅と舗装のための家屋の移転が始まった。拡幅する分だけ建物を後ろにずらす。「この際だから新築する」ものもあった。11月ごろには家並みは後退し、電柱だけが取り残される奇妙な風景ができた。

  

 ■急増するトラック、交通事故

  

  大通りをはじめ、市内の道路を行き来してきた馬車が自動車に代わり、トラックが急激に増えた。自動車講習所が苫小牧交通安全協会の肝入りで開設(4月)された。これが翌年、あれこれの問題にぶつかりながらも市立苫小牧自動車学校に移行する。

  苫小牧では昭和28年あたりから自動車が急増した。市内の車馬の保有台数は、同年は自動車250台(うち貨物207台)・馬車616台とまだ馬車の方が圧倒的に多いのだが、昭和31年には自動車638台(同374台)・馬車441台と逆転していく。

  運転免許試験の合格者は新聞に載り、女性が合格すると大きな話題として報じられた。昭和30年の「自動車熱」というのは、相当なものであった。この年、初めて苫小牧市営バスが導入した新型車両(エンジンが後部に付いておりボンネットが突き出していない現在と同様のタイプ)は「ロマンスカー」と呼ばれて人気を博し、支笏湖への観光バスとして使われた。

  自動車台数の増加に伴って、交通事故が多発した。何しろ未舗装の一条通りの狭い商店街を、スピードを落とさずにトラックが通り抜けていくのだ。人身事故や電柱への衝突などが頻繁に起き、住民は悲鳴を上げた。苫小牧署は市街地の制限時速を30キロから25キロに、また、一条通りと旭館通りを車馬通行禁止にすることを道公安委員会に申請し、実現した。

  それでも事故は起こった。11月11日午後、駅前通りでトラックが追い越しに失敗して衝突し、勢い余って拓銀の自転車置き場とバス停に突っ込んだ。12日には苫小牧民報社前で2人乗りの自転車がダンプにはねられて1人が死亡。14日と15日には大通りでトラックが電柱に衝突。運転者も歩行者も、誰もが自動車というものに不慣れだった。後に、国道36号は棺桶国道とさえ言われるようになり、交通事故の悲劇は高度経済成長期中続く。

  

 ■独航船「苫小牧丸」北洋へ

  

  好景気が続く陸上とは異なって、海では漁民が不漁にあえいでいた。「戦争中に取り過ぎたからだ。それに、煮干しを作るために三陸辺りから漁船が来てニシンだのイワシの幼魚を取る。魚が取れなくなるのは無理もない話だ」。苫小牧漁業協同組合の鳥越兼次郎組合長はそう言ってうなった。魚類を増やそうと魚礁投入をしたがすぐの効果は望めない。ホッキは取れたが枯渇が心配だ。そんな中、北洋漁業に期待の目が向けられた。敗戦後禁止されていた北洋漁業は、昭和27年の講和条約(日本の独立)以降、再開されていた。

  苫小牧漁協は850万円を投じて「北洋丸」(45・41トン)というディーゼル150馬力の動力船を購入し、整備して西カムチャツカに挑もうとした。整備を終え、田中正太郎苫小牧市長が「苫小牧丸」という新たな名と大漁旗を贈った。「苫小牧から北洋に行くのだから苫小牧丸がいい」

  もう1隻、苫小牧からは個人の持ち船の「幸進丸」(51・71トン)が東カムチャツカに挑もうとしていた。「幸進丸」は5月1日に函館から、「苫小牧丸」は同月末に稚内から、船団の一員として出航した。

  苫小牧丸には鳥越兼次郎船長をはじめ16人が乗り組んだ。船団は母船と、これに従う独航船20、調査船4、臨時調査船2隻。独航船は平均57・8トンで、苫小牧丸は最も小さかった。しかし「独航船20隻中無事故というのはわが苫小牧丸だけだった」。好成績と貴重な経験を積んだ苫小牧丸は8月26日、苫小牧沖に無事な姿を見せた。

  苫小牧丸が入るべき港の建設は、ひととき停滞していた。本格的な築港は港の基本的な形が決まる昭和31年以降のことになる。誰もが、新しい時代に向かっていた。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 ■漁船の小ささ憂う

  

  苫小牧丸の船長として西カムチャツカの海に挑んだ鳥越兼次郎・苫小牧漁協組合長は、およそ80日間の北洋漁業について次のように述べている。

  「何よりも痛感したのは船が小さいことだ。水揚げの最高は一日(十三時間)で(サケ・マス)一万三千尾を獲ったことがあるが、船の能力が小さいために三千尾くらい捨てる羽目となった。これは出漁中乗組員全員が最も残念に感じ、また最も苦しかったことだ。せっかくの獲物をみすみす海中に投ずるのは涙の出るほど口惜しいことで、期間中全部で四万尾は捨てている。来年は八十トンの船を持たしてくれれば優勝旗をとる―と母船船長とも話したが、何とかしてもう少し大きい船が必要だ。塩も母船からくるが自船で三百箱は持って行かねばならない。今回の出漁で母船式操業に対する自信もついたので来年度以降は十分の成績を挙げ得るものと信ずる」。

 (昭和30年8月28日付「苫小牧民報」概要)

  

 【昭和30年】

  

 苫小牧市の世帯数(戸数)10,485戸、人口53,651人 

  

 《昭和30年漁獲割合》

 ホッキ23.9%/ニシン22.3%/スケトウダラ7.1%/カレイ5.8%/サケ4.4%/マス2.9%/イワシ同/その他30.7%

  

 1月20日  第23回全日本アイスホッケー選手権大会で王子製紙優勝

 3月     錦岡地区の簡易水道給水開始

        苫小牧市立保健病院が苫小牧市立病院と改称

 3月 1日  苫小牧農業協同組合および苫小牧酪農業協同組合が合併のため解散

 4月     苫小牧市農業協同組合発足

 4月     苫小牧交通安全協会付属自動車講習所設置

 4月30日  市長・市議選挙(田中正太郎市長3選・無投票)

 6月     中央バス、苫小牧乗入れ

 8月19日  市文化財保護条例設定公布

 10月10日 苫小牧山岳会発足

  

  

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