<13>昭和32年 築港中止論に「それなら市費で掘ろう」 人口増加で学校新設も間に合わず

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月18日
グラウンドが子どもたちであふれる苫小牧西小学校の運動会(昭和30年代前期)
グラウンドが子どもたちであふれる苫小牧西小学校の運動会(昭和30年代前期)
ようやく船だまりができた苫小牧港(昭和32年、苫小牧市「目で見る苫小牧の百年」より)
ようやく船だまりができた苫小牧港(昭和32年、苫小牧市「目で見る苫小牧の百年」より)
埋め立て前の新川通り
埋め立て前の新川通り
五島義正氏
五島義正氏
昭和23~37年の市内小学生数の推移
昭和23~37年の市内小学生数の推移

  

  「北海道の工業発展の基盤としての工業港の整備」という方向性が明らかになった苫小牧港だったが願うほどに建設は進まず、「この港造りは無駄ではないか」との声が上がったのが昭和32(1957)年のことであった。結果的にはそれを乗り越えて建設は進み、この年から苫小牧港建設と工場用地整備に関わる一連の工場立地が始まり、人口増加に伴う学校建設ラッシュが始まる。ただ、出来事は新しい時代への希望だけではない。苫小牧が大人数を抱える引き揚げ者に対する国の補償がようやくこの年に始まり、売春防止法がこの年に施行されて遊郭制度が終わるなど、幾つかの負の蓄積の清算が始まるのもこの年であった。

  

 ■苫小牧港築港は税の無駄遣い?

  

  苫小牧港築港の是非は、前年から浮上し始めていた。昭和31年12月、行政管理庁長官の諮問を受けた公共事業監査特別委員会は、苫小牧港築港について「わずか60キロの地点に天然の良港の室蘭港がある」ことを挙げ、漂砂や内陸掘り込みなど困難が予想される苫小牧港築港に莫大(ばくだい)な国費を使うことは妥当ではない(概要)と答申した。産業界、学識経験者から成る産業計画会議も32年1月、苫小牧港築港計画の一時中止と再調査を政府に勧告した。さらに32年2月には、中谷宇吉郎北大教授が苫小牧港修築事業に対する批判論文を発表するなど逆風が吹き荒れた。

  この時、昭和32年度の築港の国費はようやく約1億円が見込まれていた。これに対して当時の苫小牧民報は「国が満足な予算を付けないから工事が進まず否定的な声が出る。それなら内港掘削は市費でやろう。市の臨時事業費が3億円あるが、必要不可欠なものを残し、あとは築港につぎ込む。一般市政を3年間空白にしても、5千トン級の船舶を出入りさせる港を造る。全市に忍耐を強いることになるが真剣に論議すべきだ」(昭和32年1月22日付、概要)と田中市政に決断を求めた。

  このような論陣を張れるのは、苫小牧港築港という事業が、「国」という天から降って湧いたものではなく、数十年にわたって自ら汗を流して論議してきた実績を持った、地に足が着いたものだったからであろう。

  同年10月、開発庁は大工業港地区説計画を立案し、築港は進む。

  

 ■地元企業や中小企業が立地

  

  苫小牧市はこの年の4月、都市計画の中で築港周辺を臨海工業地帯として用途地域決定し、企業を呼び込もうとした。ここに立地した最初の主要工場は日本ヒューム管苫小牧工場で、勇払地区でコンクリート製の管を造った。この年、新聞紙の需要増大に対応して王子製紙苫小牧工場が東洋一といわれる208インチ抄紙機(新9号マシン)を増設し、用水が必要で錦多峰川から水を引いた。その送水用のヒューム管である。直径90センチのコンクリート管を11キロにわたって埋めたコースの道路が現在、市街地ではヒューム管通りなどと呼ばれている。

  これを皮切りに翌昭和33年には岩倉組がホモゲン第2工場を三光町に建設するなど、昭和30年代に10社近くが立地するのだが、この時代の立地企業は大企業が進出するそれ以降とは違って地元企業や中小企業が多かった。

  

 ■北光小開校も焼け石に水

  

  港造りに伴って苫小牧市の人口増加が進む。苫小牧港が着工された昭和26年以降同30年までは、毎年2000人前後の増加が続いた。30年代に入るとさらに増え、3000人前後ずつの増加となる。

  この中で、田中正太郎市長と森田勇教育長が頭を抱えたのは学校の過密化であった。転入者の増加とともに児童生徒数が急増し、校舎を「いくら建ててもそれを追い超すのがイガグリとオカッパの頭数」だった。昭和27年度に東小の児童数が2600人を超えて若草小を建て、その後は幾分落ち着きを見せていた。しかし、昭和30年度から数年間の児童数の増え方はといえばどうであろう。西小は毎年300人ずつ、東小は100人ずつ、若草小は200人ずつ(いずれも概数)増えた。

  「人口の自然増加率でそろばんをはじいて学級編成をしても、新学期が始まるころには的外れな数字になっていて大幅に変更しなければならない」と森田勇教育長が嘆く。転入者が多く転出者が少ないから児童数が増えるのだが「それにしても…。学齢期の子を抱えた若い世帯ばかりが転入してくるのではないか」。

  西小の児童数は昭和31年に2500人を超え、翌32年には市街地4番目の小学校として北光小が開校した。これがラッシュの始まりであった。翌33年には若草小から分離して緑小が、35年には西小から再度分離して大成小が開校した。それらの卒業生を受けて36年には和光中、37年には光洋中と啓北中が開校する。

  街は鉄北へ、西町へと広がり、中心部では明治期以来生活用水に利用され市民に親しまれてきた「新川」が埋め立てられた。

  

一耕社代表・新沼友啓

 参考=苫小牧市史、苫小牧港史、王子製紙苫小牧工場創業100年のあゆみ

  

 ■引き揚げ者、苫小牧は1万人

  

  樺太(サハリン)の王子製紙関連工場からの引き揚げ者が多かった苫小牧では、在住引き揚げ者数が2000世帯1万人といわれた。家も家財も捨てて引き揚げてきた人々だ。昭和32年5月、外地引き揚げ者の北海道連合会苫小牧支部が結成された。支部長は2年前に道議会議員になった五島義正氏。この年始まった在外資産補償について、次のように呼び掛けた。

  「全国四百五十万引揚者の要望が実を結んで在外資産補償500億円が決定し、近日中に申請書の受付が行われる運びとなったことは感無量だ。講和条約に際し諸国は、在外における日本人の私有財産の請求権放棄を要求し、政府はこれを認めたのだから、在外資産の補償は政府の責任だ。今後、補償債券の現金化、低家賃住宅、国民金融公庫融資などの問題が山積しているので、市民のご支援をお願いする。当面は給付金の完全申請の事務処理その他の相談に応じ、全員が給付を受けられるように努力する」(「苫小牧市政だより」昭和32年8月1日付)

  

 【昭和32年】

  

 苫小牧の世帯、人口=11,400戸、57,004人

  

 《昭和32年・関連小学校長》

 苫小牧西小=萬谷直吉、苫小牧東小=加藤虎雄、若草小=友成眞七、北光小=田中吉雄

  

 1月19日 第25回全日本アイスホッケー選手権大会で王子製紙、岩倉組が優勝を分ける

 2月    中谷宇吉郎北大教授が苫小牧港修築事業に対する批判論文を発表

 3月    勇払地区の簡易水道給水開始

 4月 1日 売春防止法施行

       苫小牧市の都市計画区域のうち臨海工業地帯の用途地域決定

       苫小牧東高校が第29回全国高校選抜野球大会に初出場

 4月 5日 北光小学校開校

 4月20日 日本ヒューム管苫小牧工場操業開始

 5月 4日 外地引揚者の北海道連合会苫小牧支部結成大会開催

 6月12日 モーラップ休憩所設置

 7月    苫小牧市立病院、鉄筋3階建ての診療棟新設完成

 10月   新川を埋め立てる

  

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