<14>昭和33年 労働運動史に残る「王子争議」 市政、市民生活にも禍根残す

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月18日
もみ合う第一組合員、第二組合員、警察官(昭和33年)
もみ合う第一組合員、第二組合員、警察官(昭和33年)
原野の中にできた岩倉組ホモゲン第二工場(昭和33年)
原野の中にできた岩倉組ホモゲン第二工場(昭和33年)
旧寿楼の姿をとどめるアパート「碧水荘」(昭和52年)
旧寿楼の姿をとどめるアパート「碧水荘」(昭和52年)
岩倉組ハードボード部・會田徹課長
岩倉組ハードボード部・會田徹課長

 

 昭和29(1954)年後期から始まった「神武景気」は、同32年7月に至って「鍋底不況」の時期に入る。過剰な設備投資や在庫の急増などによって、翌33年前半まで景気の冷え込みが続く。しかし、同年7月には国内消費が再び高まって「岩戸景気」のにぎわいを見せる。そんな景気の浮沈の中で、苫小牧では労働運動史上にも残る「王子争議」が起こった。市政や市民生活に大きな影響を及ぼし、また、後にまで分裂や感情的な対立を残していくことになる。

  

 ■労使対決の天王山

  

 戦後の民主化政策の中で労働運動が活発化し、昭和21年には労働組合の全国組織率は約40%、組合員数は約400万人に及んだ。当初の運動は激しいインフレの中で生活条件闘争を主としたが、高度経済成長期に入ると労働環境改善、権利闘争が加わるようになった。王子製紙では戦後間もなく労働組合が結成されたが、温情主義、家族主義の社風の下に労使はそれなりに結び付いていた。しかし、昭和32年の「鍋底不況」の中で亀裂が生じ始め、翌33年には賃金闘争から労働協約闘争へと移行していく。

 この経過を、苫小牧市史編集長だった堀江敏夫さん(故人)は「昭和33年2月、王子労組は春闘で会社に賃金など3項目について要求し一斉スト、部分ストを行った。会社は5月17日に最終回答と同時に、労働協約からユニオンショップ条項を削除するという提案を行い、争議は賃金闘争から労働協約闘争へと切り替わった」(概要、昭和48年4月8日付、苫小牧民報)と解説している。

 ユニオンショップとは雇用された労働者は必ず労働組合に加入しなければならないとする制度で、これをめぐって労組は7月18日に無期限ストに入り、実に145日間にわたるストライキが繰り広げられる。この間、労使対立ばかりでなく組合は第一組合(王労)、第二組合(新労)に分かれて対立し、関係労組のオルグ団、武装警察官が介入し、暴力団も暗躍して流血の惨事が起こった。この争議は、労使間の基本ルールでの対立という点からも、また、規模の大きさからも労使対決時代の「天王山」ともいわれた。

  

 ■混乱する市民、困窮する市財政

  

 苫小牧は「王子の城下町」といわれていただけに、この争議の産業経済、社会生活への影響は大きく、鍋底不況と相まって関連中小企業の倒産、夜逃げ、賃金未払いなどが相次いだ。商店街も売り上げが減少し、手形の不渡り件数は戦後最多に上った。

 その状況は、市長と市議会議長の名前で中央労働委員会に出された陳情書に見ることができる。

 「この争議により下請企業者にありては使用人の解雇続出、中小企業者の倒産も散見せられ、中には自殺を図る者もあらわれております」

 争議は、嫌がらせや報復、感情的な対立を引き起こして泥沼化し、一般市民も第一組合派、第二組合派に分かれていがみ合い、子どもたちの世界にまでそれが及んだ。

 「労働争議の長期化により組合脱退者の間に骨肉相食む事態を招来し…さらには市民全般の生活は極度に不安になり…思うだに恐ろしき悲惨事が日を追って繰り返されるは必至であります…略」(陳情書)

 市の財政も大きな影響を受け、予算は大幅に減額見直しがされ、融資住宅、養老院、第六小学校(大成小)、労働会館の建設などが見送られた。また、王子製紙からの税収が減じて国の特別交付金を受ける事態となった。苫小牧市が、「王子だけに頼ってはいられない」と「脱城下町」志向を色濃くしたのもこの頃である。

 中央労働委員会仲裁案の受諾により、12月9日にはストライキ、ロックアウトとも解除したが、その後も両組合の対立、会社による第一組合員の解雇、処分などが行われ、実際に一応の決着を見たのは翌年6月のことであった。

  

 ■三セク、ホモゲン、赤線

  

 この年、王子争議以外に取り上げるべき幾つかの事がある。築港関係では道内初の第三セクター苫小牧港開発株式会社の設立。工業地帯関連では岩倉組ホモゲン第二工場の操業開始。他に電報電話局の旭町局舎新築、王子スポーツセンターのパイピングリンク完成、緑小学校の開校。そして、実質上の遊郭廃止など。

 官が認めた遊郭の公娼制度は昭和21年に廃止されたが、公娼地域はそのまま特殊飲食店街(特飲街)の名で私娼地域として存続した。「赤線」と呼ばれたのは、警察などの書類に付された地図上でその地域を赤線で囲ってあったからである。それに対して売春防止法が昭和31年に可決、翌32年に施行。違反への刑事罰適用は33年4月からとし、1年の猶予中に、そこを仕事場とする人々の転職を促した。

 苫小牧には浜町に遊郭街があって赤線と呼ばれ、大町にも私娼の店が何軒かあって「パンパン屋」などと呼ばれていた。浜町の遊郭のうち「寿楼」は終戦直後の住宅難の時期に王子製紙が買い取って寮にした。苫小牧郷土文化研究会の前会長・山本融定さんの調査では、この寮は遊郭時代にあった20室ほどを40室に改装して使用した。社宅が増設されると昭和27年ごろに個人が買い取り、昭和50年代までその姿をとどめていた。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 ■東洋一の岩倉組ホモゲン第二工場

  

 昭和33年、緑町・明野地区に岩倉組ホモゲン第二工場が完成した。木材チップを原料にして加熱圧縮材を製造する。「ホモゲン」というのはドイツ語で均質な木材を意味する。ドイツで「ホモゲンホルツ」(商品名)などの加熱圧縮材が普及し、家具やラジオのボディーなどに多用されて人気だった。第二工場では機械設備の多くをドイツから輸入して「オートメーション化」を図り、その規模は東洋一といわれた。

 圧縮材は一般にハードボードといい、岩倉組ハードボード部の會田徹課長は第二工場建設前の昭和31年、以下のように話していた。

 「ハードボードが試運転されたのは二十七年五月でした。用途は家具が三割、ミシンが三割、建築が三割であとの一割はその他。ラジオ、テレビのキャビネットにもぽつぽつ使われてきているので、私もこれに力を入れているのですよ。このままの状態でいくと一生私はハードボードと心中ですな」

 (「苫小牧民報」昭和31年3月29日付、部分概要)

  

 【昭和33年】

  

 昭和30年代の苫小牧市世帯数、人口の推移(苫小牧市史より)

 苫小牧の世帯数  12,626世帯・人口 60,540人

 北海道知事 田中敏文

 苫小牧市長 田中正太郎

 苫小牧市議会議長 渡辺広継

  

 4月 1日  苫小牧市立病院が苫小牧市立総合病院と改称

 6月29日  苫小牧電報電話局、旭町に局舎を新築し自動交換方式となる

 7月 3日  皇太子殿下ご訪問

 7月18日  王子製紙無期限ストに突入

 8月 8日  王子製紙新労働組合(第2組合)結成

 8月15日  市制10周年記念行事行う

 8月16日  苫小牧港開発株式会社設立

 8月22日  岩倉組ホモゲン第2工場操業開始

 10月13日 緑小学校開校

 10月 3日 汐見町、末広町、港町新設

 12月 9日 王子製紙の無期限スト解除

  

  

  

  

  

  

  

  

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