無期限ストが解除されたとはいえ、昭和34(1959)年が明けても王子争議の波乱は一向に収まらない。「労、労、使」の協議は行きつ戻りつし、この年春の市議選は、「会社」と「王子労組(第一組合)」「王子新労組(第二組合)」の候補が入り乱れて議席を争い、メーデーは分裂。その余波は小中学校PTAの役員選びにまで及んだ。この春、4期目を無投票で迎えた田中正太郎市長は初登庁間もなく全職員を前に「厳正中立」を強調した。ただ、昭和32年7月以来「鍋底」を巡っていた景気は立ち直り、零細企業の賃金未払いも改善されて街には明るさが戻り、新しい行楽地・ウトナイ湖がにぎわいを見せた。
■激戦の市議会議員選挙
この年の春、苫小牧は政治的に大きな高揚を見せた。
道知事、道議選挙が4月23日投票。これを前に18日には市長、市議選挙が告示され、市長選は田中正太郎氏(以下敬称略)が無投票4選を決めたものの、市議選は定数30に対して45人が立候補。内訳は現職20人、元職1人、新人24人。党派別では自民党2人、社会党7人、共産党1人、無所属35人(保守19、革新9、その他7)。市議に女性(1人)が初めて立候補したのもこの選挙だ。革新系が労組の組織票を軸にするのに対し、保守系は市議選では初めて後援会を結成して対抗し、道議投票日の23日を中心に、市議選はクライマックスに達した。
30日の投票率はある地域では9割に達し、その結果、当選者は前議員17人、新人13人と新人の台頭が目立った。保革別では保守14人、革新14人、その他2人(王子新労組)と伯仲した。中でも注目されたのは王子製紙の総務部副部長の藤原博弥(無所属)と王子労組所属で解雇処分を受けた五十嵐泰(社会党)が首位(1275票)と二位(1207票)を分けたことで、王子争議の直接的な影響を象徴する結果となった。
■分裂メーデー、PTA活動も混乱
この選挙戦の頃、王子労使の紛争は、会社、王子労組(第一組合)、王子新労組(第二組合)の三者会談を主軸に自主的な平和解決の道へと進もうとしていた。前年の145日間に及ぶストライキ、その後の一斉就労、職場闘争、組合脱退、懲戒処分、中山中労委会長の斡旋打ち切り声明と続いていた紛争は解決への道に行き詰まり、あたかも再燃するかに見えたが3月下旬、一転しての話し合い路線となった。これについて「社会党道連、全道労協が地方選を見据えての方向転換」「中山中労委会長にさじを投げられて会社にも自主解決の道しか残らなかった」などの推測がなされた。ともあれ、争議の再燃が防がれ、多くの市民が安堵した。
しかし、この紛争の波紋は小さくはなかった。
まず、5月1日のメーデーが初めて分裂した。王子新労組(組合員1162人)が「苫地区労の左傾主義には参加できない」として苫小牧地区統一メーデーへの参加を拒否し、独自の行事を計画したのだ。双方のデモ隊がぶつかり合うのではないかとの緊張が走ったが、そうはならなかった。
小中学校のPTA活動にも混乱が起こった。従来、PTA役員には王子製紙の会社幹部が多かった。寄付金額の多い者が学校運営に影響を与えるという風潮も見られた。これを改善しようとする北教組の運動と絡んで、会員に王子製紙の管理職や従業員が多いPTAでは役員選挙の方法をめぐって争議同様の構図で対立。弥生中ではPTA会費を決めることができず、東小、西小では総会を延期する始末となった。
■新観光名所「ウトナイ沼」
選挙と争議で揺れた昭和34年春。しかし、黄金週間を楽しもうと、人々は観光地へ繰り出す事も忘れなかった。この頃の観光地といえば、支笏湖、登別温泉、洞爺湖、札幌テレビ塔。手近では緑ケ丘公園。樽前山七合目ではバスの待合所を兼ねたヒュッテが建設されていた(7月完成)。そして前年9月に温泉とホテル(昭和35年から「ウトナイ観光ホテル」の名称)が新設されたウトナイ湖が、施設整備後初めての春を迎え、ボート遊びに「ベビーゴルフ」にとにぎわった。
「好天に恵まれた(5月)10日、近郊から1200人の行楽客が訪れ、今シーズンの最高記録。地元苫小牧をはじめ、千歳、札幌方面からもハイヤーやオートバイで乗り付け(略)ボート30隻は空く暇がなく(略)、沼の中央で転覆した船もあったが浅瀬なので無事。(略)宿泊設備が不足しているので、二階建てルームの増設工事を始めている」(5月12日付、苫小牧民報)
今から見れば、街が異様な熱気を帯びた春であった。
一耕社代表・新沼友啓
■「厳正中立を堅持」
無投票で4選を果たした田中正太郎市長は、投票日の翌日(5月2日)朝、全職員を市役所裏の広場に集めて所信を述べ、この中でことさらに「厳正中立」を強調した。というのも、市議選の中で田中市長の一党派への偏りがうわさされたり、名前が無断で使われたりしたためだった。全職員を前に、田中市長は次のように述べた。
「(略)四度目の立候補をあえて決意したのは、やり残した仕事を少しでも軌道に乗せ、一歩でも先に進め、明るい住み良い街にしたいからである。まず港は特別会計に繰り入れられ、石炭積出港としての明るい未来が約束されている。しかし、商、漁港など港利用の問題、土地買収、工場誘致、都市計画と難問が山積しているが、慎重に進めていきたい。王子争議の経済的打撃についても、これが克服に努め、厳正中立を堅持したい。市町村長は一党一派に偏すべきではないと考える。この考えは今も変わらない(略)」
(「苫小牧民報」昭和34年5月3日付)
【昭和34年】
北海道の人口 5,039,206人/苫小牧の世帯(戸数)・人口13,381世帯63,558人、
北海道知事 町村金五
苫小牧市長 田中正太郎
1月18日 市立苫小牧幼稚園開園
3月 王子製紙苫小牧工場の旭牧場閉鎖
4月 1日 道内初の浜町下水処理場操業開始
苫小牧港に「特定港湾施設整備特別措置法」適用
4月 4日 苫小牧工業高校第31回全国高校選抜野球大会に出場
4月30日 市長・市議選挙(田中正太郎市長4選)
7月 樽前山七合目にヒュッテ開設
8月 王子製紙道代表として全国都市対抗野球大会に出場
苫小牧東高校第41回全国高校野球大会に出場
8月10日 駅前交通センター落成
12月25日 第3消防出張所開設