昭和35(1960)年といえば、岩戸景気(昭和33年7月~同36年12月)のど真ん中である。経済を飛躍的に成長させて完全雇用、生活水準の向上を目指す国の新長期経済計画が進む中で、「10年間で国民所得を2倍にしよう」という所得倍増論が打ち出されたのがこの年。工業基盤の構築と拡充が進み、苫小牧では港の内陸掘り込みが始まる。街にはテレビアンテナの林ができ、人々の目は次の冷蔵庫に向いていた。また、変貌する郷土の姿を冷静に見詰めようとする人々の姿もあった。
■6億円の陰に炭鉱離職者
昭和35年が明けて、国の35年度予算案がほぼ固まった。前年度、苫小牧港建設予算は「特定港湾施設整備特別会計」に繰り入れとなり、それまでの2億円台から4億円台に跳ね上がった。
35年度はどうか。前年9月、伊勢湾台風が列島を襲い、死者、行方不明者5000人という明治以来最悪の被害をもたらした。予算がその復興に振り向けられる中で、苫小牧港には6億円の予算が確実になった。特例と言えた。それには石炭合理化対策の一環として、築港事業に雇用の場を広げるという含みがあった。石炭から石油(重油)へのエネルギーの転換の中で、石炭企業を維持するための合理化、手早く言えば炭鉱労働者の切り捨てが進み、その雇用対策の一つが苫小牧港建設に負わされたのだった。
苫小牧職安が求職を受け付けた炭鉱離職者は、年明けの1月だけで「三井鉱山」「油谷芦別」「三菱鉱業」などからの21人。縁故や自己就職を含めれば、その3倍の60人ほどが苫小牧に転入したと考えられた。
好景気に誘われた転入者で街の人口は飛躍的に増え、住宅と教室が足りなくなった。民間アパートが建ち始めたのがこの年。北光小(昭和32年)緑小(同33年)に続いて、大成小学校が開校した。西小学校から分離する子供たちが自分の椅子を持って列を成し、大成小まで歩いた。
■内陸掘り込みの開始
ともあれ築港に6億円の予算が付いた。東防波堤を230メートル延長して1040メートルに延ばし、東から潮流に乗って流れ込む漂砂の遮へいを終える。西防波堤は総延長400メートルにする。これで防波堤の9割は完了。いよいよ内陸の掘り込みを開始する。大型しゅんせつ船「東明丸」を招き、1日に5トントラック1700台分の土砂を掘削する。吸い込んだ泥水を直径60センチほどのパイプで西に2キロ離れた海岸に送り、海洋放出したというからヤンチャなものだ。
「その頃夜になると、東明丸から『掘削ポンプの(海中の)吸い込み口に何か引っ掛かったから潜ってくれ』と、よく依頼がきた。アクアラングを着けて潜ると、太いワイヤが引っ掛かっていたりした」(市内男性)
東明丸にも潜水士はいたが、夕方になると疲れが激しく、酒を浴びるように飲んで寝てしまう。会社は夜でもポンプを動かしたいから、その頃公務員だった男性にこっそりと依頼が来たのだという。
陸上を掘った土は、現在の美園町などの湿地の埋め立てに、宅地や工場用地を造成した。
■テレビの次は冷蔵庫
「敗戦、食糧不足、インフレ、争議…でも、頑張ってやってきた。テレビも買えたし、次は冷蔵庫だ」
築港と原野開発に伴う土地ブームの中で、投機的に住宅用地を購入しようという人も多くなった。不動産業者は、客を自動車で送り迎えし、宣伝カーも繰り出した。
苫小牧市のテレビの普及は急速で、テレビ放送の受信ができるようになって3年目の昭和34年暮れにはもう3000台を突破し、4世帯に1台になった。次は冷蔵庫、電気掃除機。ミキサー、アイロンも人気。テレビといえば、この年9月、わが国でカラーテレビ放送が始まり、苫小牧でも電気店によるカラーテレビの実演会が産業会館(駅通り十字街東角)で開かれた。全国1600台のうちの1台で、価格は50万円もした。ただ、道内ではこの年、まだカラー放送は受信できず、実演会でもカラー画面は映らなかった。だが「豪華なカラーテレビを見ようと、会場は市民でにぎわった」(苫小牧民報、9月2日付)
■買い物は「セルフサービス」で
もう一つ、特に主婦の人気を呼んだのが買い物の「セルフサービス」だ。
お店が用意した買い物籠を持って、自由に品物を選び、レジで精算してもらう。現在では当たり前のこの買い物の形が、この年苫小牧で初めて王子町の王子中部配給所(後の王子中部サービスセンター)で試みられた。それまでは対面販売で、客が立て込むと待たされて「サービスが悪い」と苦情を言われた。「それなら…」と始めたセルフサービスは「大変便利。でも少し買いすぎますわ」と買い物の主婦。苫小牧商工会議所の宮本義勝副会頭らが視察し、「非常に合理的。市内業者も一度見せてもらうといいと思う」と。
ただ、これらのにぎわいの陰で密かに増えていたのが質屋。雇用が不安定な季節労働者、日雇い労働者らが利用した。「最近急激に増えて18軒」になった。質屋が繁盛するのは好景気とも不景気ともとれるが、「質流れが多いのは生活苦の現れ」であった。
一耕社代表・新沼友啓
■郷土の歴史を光あるものに
勇払原野の開発が急速に進む中で、郷土の自然や文化、歴史を大切にしようという潮流が生まれた。
昭和35年4月、苫小牧郷土文化研究会が発足し、動物、植物、歴史などの部会をつくって活動を始めた。図書館には郷土博物室が開設された。苫東高校生物部の卒業生が昆虫同好会をつくり、調査を始めた。これらの中で、八王子千人同心・蝦夷地移住隊士などの歴史研究が進み、緑リンク(現在の市立病院)近くの湿原でヒメワタスゲの群落やトキソウ、ミズトンボなどの希少植物が確認された。また、74歳でなおかくしゃくとしていた国際的な鳥獣標本採集家・折居彪二郎氏がウトナイ湖をはじめとする勇払原野の渡り鳥の調査を実施した。
郷土文化研究の中心となった門脇松次郎氏は次のように言う。
「壊す事はやさしいが、護る事は困難なことだ。苫小牧の郷土の歴史を、われわれは正しく、強く、そして光のあるものにしたい」(郷土の研究第2号)、「勇払原野が開発という二文字で、大変貌を余儀なくされてしまった。慕しい、恋しい、痛々しい、原野の思い出は、どんなに自然を愛する者への郷愁をふかぶかと胸に食い入らせたことであろうか」(同第3号)
これらの活動は、開発と対立するものではなく、郷土愛という共通の意識のもとにむしろ一体であった。それは市長が苫小牧市白鳥保護委員会(昭和36年設立)の会長を務めて自然保護の一翼を担い、自然保護や郷土文化研究活動に多くの地元企業が協力したことからも分かる。実践の先頭に立った多くは教員であり、市職員であり、手弁当でわが身を削っての活動がその後の苫小牧市の行政や教育力、文化を支える人材や機能を力強いものにしていく。
【昭和35年】
苫小牧の世帯(戸数)・人口14,434世帯62,384人
《この年始まったテレビ番組》
「自然のアルバム」「人形劇ブーフーウー」「兼高かおる世界の旅」「トップ屋」「新七色仮面」「少年探偵団」「快傑ハリマオ」「海底人8823」「ナショナルキッド」
3月26日 全労苫小牧地区協議会結成
4月23日 苫小牧郷土文化研究会誕生
4月27日 苫小牧ライオンズクラブ発足
6月10日 市立苫小牧図書館に郷土博物室開設
6月24日 しゅんせつ船「東明丸」が苫小牧港内陸堀り込みを開始
6月 美園地区の埋め立て開始
9月 1日 大成小学校開校
12月 日本ライヒホールド化学工業北海道工場(大日本インキ)操業開始
12月16日 市営ウトナイ湖ユースホステル設置