<18>昭和37年 内陸掘り込み進み日高本線切り替え 農業基本法が生んだ「労働力」の流入

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月18日
内陸掘り込みが進む苫小牧港(昭和37年9月17日撮影、志方孝之「砂浜と原野にいどんで」より)
内陸掘り込みが進む苫小牧港(昭和37年9月17日撮影、志方孝之「砂浜と原野にいどんで」より)
農業基本法施行後の機械化で耕耘機が導入された厚真町の水田(昭和40年代=厚真町史より)
農業基本法施行後の機械化で耕耘機が導入された厚真町の水田(昭和40年代=厚真町史より)
王子不動産ビルから見た国道沿いの市街地(昭和37年ごろ)
王子不動産ビルから見た国道沿いの市街地(昭和37年ごろ)
岩倉組アイスホッケー部 副将・小野悳氏(当時29歳)
岩倉組アイスホッケー部 副将・小野悳氏(当時29歳)
昭和30年代の苫小牧の世帯数・人口推移
昭和30年代の苫小牧の世帯数・人口推移

  

  昭和37(1962)年、苫小牧港の内陸掘り込みは進み、この年の暮れには日高本線が内陸に移設されて運行を開始。港口は広々と掘り込まれ、翌年4月の第1船入港に向けて準備が進む。街では、初めての近代的ビルである王子不動産ビルが、やはり翌年4月の完成を目指す。人口は増加に拍車が掛かり、この年から翌年、翌々年へと世帯数の増加率が連続10%台、人口は6000人前後ずつ増える。この人々が産炭地や農村部から流入してきたことはこれまでにも記したが、胆振東部農村地帯では農業構造改善事業が始まって小規模農家が立ち行かなくなり、離農者が目立って増えるのがこの年からであった。

  

 ■日高本線の切り替え

  

  左の写真を見ていただきたい。志方孝之氏(元志方写真工芸社社長・故人)が、写真家生涯の仕事として撮り続けていた苫小牧港築港の航空写真のうちの一枚で、昭和37年9月17日に撮影された。外洋からの掘り込みが道路と鉄道の部分でいったん途絶え、その内陸に再び水面が広がる。

  内陸の掘り込みは昭和35年、東明丸という大型のしゅんせつ船が投入されて本格化するが、東明丸はまず外側から日高本線と国道が並んで走るところまでを掘った。次に、鉄道の内陸側に東明丸が入るだけの狭い遊水池が掘り広げられ、日高本線はその「池」の向こう側に仮設しておく。

  元の鉄道敷地をわずかな幅で掘り破って東明丸を「池」に入れ、掘り破ったところに鉄橋を架け、仮設した鉄路を元に戻す。東明丸は鉄橋の内陸側で池をどんどん掘り進めてほぼ2年後には写真のような形ができ上がっていったのだった。その後、日高本線は昭和37年12月、港の北側から東側を回って勇払に至るルートに移設運行開始され、勇払駅も移転する。

  鉄路関連では苫小牧駅の操車場の整備も行われた。石炭や新聞用紙を積んで港へ向かう貨車をさばく。新操車場は苫小牧駅から沼ノ端寄り3キロほどの所に造られ、建設費は2億9500万円。このうち8400万円は国鉄が出すが、残りは王子製紙(6500万円)、大昭和製紙(3300万円)、国策パルプ(1200万円)、岩倉組(500万円)、そして石炭を扱う第三セクターの苫小牧港開発(9600万円、後に4400万円を追加)が「利用債」を引き受ける形で支出した。12月1日にはこの操車場も利用が開始され、港を巡る鉄道網の基本が完成する。

  

 ■「労働力」を生んだ基本法農政

  

  ところでこの頃、農村地帯では大きな変化が起こっていた。昭和36年の農業基本法施行と、それに伴う翌37年からの農業構造改善事業の実施である。

  高度経済成長に伴って都市の労働者の所得は上がり、農家は低い所得のまま置き去りにされた。だから個々の農家の経営規模を拡大し、機械化、省力化して所得を上げようと「基本法」は狙う。しかし、それについていけない弱小経営農家を離農させ、労働力として工業発展著しい都市に向かわせようとするものでもあった。近隣でいえばその農村とは胆振東部や日高の各町村農村部であり、都市とは紛れもなく苫小牧である。

  基本法に基づく農業構造改善事業では、事業費のうち国が50%、都道府県が20%を負担(補助事業)し、水田圃場整備やトラクター導入、共同選果場、ライスセンター整備などが行われた。苫小牧周辺では、いち早く厚真町が昭和37年からこれに着手し、その後早来町、鵡川町も実施した。

  圃場整備では当時1区画10アールが一般的だった水田を30アールに整備し、トラクター耕を行う。経営耕地面積は昭和35年には半数が2~5ヘクタール以下の田畑しか持たなかったが、10年後には3~5ヘクタールが3分の1、5~7・5ヘクタールが2割強と、農家1軒当たりの規模が拡大していく。

  

 ■「三ちゃん農業」の出現

  

  だが、機械化するには金が掛かる。機械を買えない農家は、広げた田圃を再び三つに分けて田植えをした。

  「3反(3アール)ったら広いよ。水面に波が立って苗が浮くもの」「手植えなら、あっちの端まで行き着くのが大変でさ。あぜに焼酎瓶を立てておいて、それ目掛けて植えていった」

  機械を入れれば馬は必要なくなり、有機肥料も消えた。所得をアップさせる農業は金が掛かる農業でもあった。出稼ぎが増え、「三ちゃん(母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん)農業」という言葉が昭和38年の流行語になった。

  「潤いの半面、小規模農家は借金が拡大し、離農が進み、農村の過疎となって現れました。離農者の都市工場労働者への定着とともに、出稼ぎ、兼業農家が増え三ちゃん農業が出現しました」(厚真町富野地区部落史「富野のあゆみ」)。

  さらに細かく見れば、昭和37年から農業構造改善事業が始まった厚真町のある集落では、基本法施行前に91戸524人が水田農業を中心として生活していたが、以降10年間で農家数は3割近く減り、跡継ぎの青年らを中心に15人が苫小牧などに転居した。その後の苫東開発などを経て30年間で73戸276人にまで減少すると同時に高齢化が進み、農村の危機が進んだ。

  このような農村の情勢の中で、昭和40年には70%を超えていたわが国の食糧自給率(カロリーベース)は、以降10年間で50%台半ばにまで急落していく。

  苫小牧への流入者の増加とにぎわいには、そのような背景があった。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

  

 ■岩倉・王子IH黄金期

  

  昭和37年の明るい話題の一つに、アイスホッケー世界選手権での日本代表チームのB級優勝(3月)がある。この頃苫小牧は文字通り氷都というにふさわしく、王子、岩倉の両アイスホッケー部が全盛で、その対決がファンを沸かせていた。昭和36年3月、新鋭・岩倉が古豪・王子を破って国体、実業団、全日本など6冠の偉業を果たし、翌37年3月米国のコロラドスプリングズ、デンバーで開催される世界選手権の日本代表チームは岩倉組を中心に組織され、苫小牧からは岩倉と王子から計17人が出場した。結果は本間(王子)、小野(岩倉)、佐藤(同)らの活躍で5戦全勝してBグループ初優勝。以下はそれを振り返っての小野悳選手の話。

  「みなさんに『お前は今年のゴールデンボーイだ』なんて冷やかされっぱなしです。私の一生のうちでこんなに大きな喜びはそうないでしょう。(中略)報道陣のカメラの砲列が向けられた時、何ともいえない気持ちになった。無性にその辺を走りたくなった。今でもありありと思い出しますよ」

 (昭和37年12月16日付、苫小牧民報)

  

 【昭和37年】

  

 苫小牧の世帯(戸数)・人口 17,032世帯、77,022人

 ・啓北中学校(開校時)広部清校長 男子183人、女子224人、計407人。10学級、教職員数16人。

 ・光洋中学校(開校時)河田義治校長 男子230人、女子218人、計448人。8学級、教職員数14人

  

 3月18日  世界アイスホッケー選手権Bグループで日本代表全勝優勝

 3月29日  苫小牧市安全都市宣言

 4月 7日  啓北中学校・光洋中学校開校

 5月     清水町地区の埋立事業開始

 7月     市営学校プール新設(東小・西小)

 9月30日  苫小牧電報電話局、自動即時通話を開始(札幌-苫小牧間)

 10月22日 王子サービスセンター開店

 12月    苫小牧市議会議員定数36人に改正

 12月    市営高丘霊園完成

 12月 1日 苫小牧港築設に伴う国鉄日高線切替線運行開始

  

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