<19>昭和38年 第1船入港に市民5000人見物 近代ビルで街の景観変わる

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月18日
祭りでにぎわう一条銀座通り(昭和38年7月15日、錦町)
祭りでにぎわう一条銀座通り(昭和38年7月15日、錦町)
苫小牧港第1船の入港式
苫小牧港第1船の入港式
竣工した王子不動産第一ビル
竣工した王子不動産第一ビル
入船式での田中正太郎市長
入船式での田中正太郎市長
昭和32、37年の市民消費支出の内訳比較
昭和32、37年の市民消費支出の内訳比較

  

  昭和38(1963)年4月、苫小牧港に第1船が入港した。それは永年の夢の実現であると同時に、腹をくくって臨港工業地帯と街をつくらねばならぬという新たな時代の始まりでもあった。市街地では王子不動産ビルをはじめとする近代的ビルが建ち始め、景観が変わっていく。多くの人々の暮らしが潤う一方で、この年だけで800人からの炭鉱離職者が流入し、それを含めて6000人もの新市民が増え、その多くの人が豊かさから遠く、行政はその対応に追われた。港が第1船を迎えてわずか6日後に4期16年の任期を終えた田中正太郎市長はその退任のあいさつで、これからの市政は大きな問題を抱えると予見した。

  

 ■念願の第1船入港

  

  苫小牧港に第1船が入港したのは4月24日、入船式が行われたのは翌25日のことだった。24日の入港の様子を、新聞は次のように報道している。

  「午前八時半すぎ、東京港から直航の光輝丸(1998総トン)が、むかわ丸の水先案内で静かに港内に入ると港内や船だまりに停泊中の漁船、作業船約四十隻が一斉に歓迎の汽笛を港一杯に吹鳴する。(略)続いて室蘭港から回航された第三北星丸(3016総トン)も入港。(略)午前十一時近くには延長三百三十メートルの石炭ふ頭岸壁に二隻の船体を横付けした」

  岸壁の市民が手を振り、船上の乗組員たちもこれに応えて手を振った。

  25日の入船式には北海道開発庁長官や自治大臣、自民党副総裁などの要人をはじめ、道内外の関係者ら400人が参列した。

  石炭岸壁1号バースには光輝丸、同2号バースには第三北星丸が満艦飾で接岸し、約50隻の漁船やタグボートが汽笛や放水で祝福すると、光輝丸と第三北星丸が汽笛を高らかに鳴らした。田中市長と上戸斌司北海道開発局長がくす玉を割り、紙吹雪が舞った。ファンファーレが高らかに鳴ると600個の風船が両船から放たれた。

  

 ■変わる市街地の景観

  

  この日は午前9時から午後1時まで苫小牧駅前~苫小牧港間に臨時バスが30分置きに運行した。多くの市民が晴れの入船式を見ようと集まり、その数は5000人に達した。開港を祝い、市内商店街はアーチで彩られた。新装された苫小牧ビル(王子不動産第一ビル)5階大ホールで入船祝賀パーティーが開かれ、夕方には石炭を満載した両船が、京浜に向けて出港した。

  この年とその前後から、苫小牧の街には「近代的ビル」が立ち並び始め、街の景観が変わっていく。昭和37年11月、地元個人資本の北川ビル(地下1階地上4階、総工費6000万円)が竣工(しゅんこう)、同38年4月20日には、第1船入港と歩調を合わせて王子不動産苫小牧ビル(地上5階地下1階、総工費約5億円)が竣工。ほか、大和不動産の大和ビル(同38年3月着工、6月竣工予定、総工費3000万円、地上3階)、苫小牧信用金庫本店ビル(5月着工、同39年5月竣工予定、地上4階地下1階、総工費2億円)などと、建設ラッシュが続く。王子不動産は地下1階、地上5階の第二ビルのほか、駅前通りに王子娯楽場(映画館)などの娯楽施設を地下に入れた大ビルを建設する大きな計画も立ていた。

  

 ■市民生活の光と影

  

  港ができ、街はにぎわう。では、人々の生活はどうであったか。

  この頃苫小牧市は、市民の台所事情の調査を怠らなかった。昭和32年から同37年までの家計調査結果によればこの間、平均賃金は昭和32年当時の3万8000円から同36年には5万円となり、37年には5万4000円を超えるという上昇ぶりを見せていた。高度経済成長の中で「所得倍増」(昭和35年)の声が高々と上がった時代であった。

  生計のための支出はどうか。消費支出は、昭和32年が約3万1000円、同36年は約3万8000円、同37年は約4万1000円。

  その内訳だが、飲食費は昭和32年が約40%、34年からは37%台と減少の傾向を見せた。いわゆるエンゲル係数で、係数が低いほど耐久消費財、教育、文化、レジャーなどに回せる費用が多い。エンゲル係数37%台の中で、多くの人々が生活にゆとりを感じ始めていた。ちなみに2019(令和元)年現在の日本のエンゲル係数は25・4%だ。しかし、生活のゆとりはといえばどうであろう。この75%に及ぶゆとりは、一体どこに消えていくのか。

  さらに、その時代の生活費について見れば、住居費は昭和32年の8%台から同34年には9%台へ、37年は11%台となった。被服費は昭和32年の16%台から同37年は14%台へ。つまり、飲食費、被服費の占める割合はそれぞれ低下、その分を住居費(耐久消費材)やその他に回すことができるようになった。

  ただ、現代ほどではないにせよ、格差はあった。昭和37~38年の苫小牧市内世帯のテレビ保有率は約75%。テレビを持たない25%のうちの多くが「経済的事情」からで、テレビを買えない家庭のために、中古テレビを月額1000円程度で貸し出す「貸しテレビ」を始めた電気店もあった。

  生活困窮世帯には、炭鉱離職者らをはじめとして「苫小牧に行ったら何とかなる」と考えた人々が数多く含まれていた。市や職安は職の確保に懸命になった。

  この時代、苫小牧は多くの人々にとって「稼ぎの場」であった。大切なのはとにかく生計を成り立たせるために仕事を得ることであり、商売を繁盛させることであり、行政はそのために企業を誘致することであった。しかし、その中で地域の付き合いとか文化などという大切なことが先送りされていった。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 ■田中市長退任あいさつ

  

  4期16年間にわたって市政を担当した田中正太郎市長は5月1日、市役所3階市議会議場で退任のあいさつをした。以下はその概要。

  「私が初の公選制首長になったのは、終戦直後のことであり、前途に大きな問題があった。苫小牧の生命である港づくりに力を入れてきたが、今、市長の座をさるにあたってよくここまできたということで、感無量だ。市民のみなさんが、港づくりをしなければならないという大きな考えにたって私を支持してくれたこと、篠田、西田地元の両先生が大きな力をだしてくれたこと、それに吏員のみなさんが手足となって助けてくれたこと、これが渾然一体となったことが、その原動力となっていた。これからの市政も大きな問題がある。苫小牧を理想的な都市に発展させるために、新しい市長の大泉君に協力していってもらいたい。大泉君は、私よりもみなさんをよく知っているし、苫小牧のこともよく知っている。最後に大苫小牧の発展を心から祈る」

 (昭和38年5月3日付「苫小牧民報」)

  

 【昭和38年】

  

 苫小牧の世帯数・人口 17,032世帯 77,022人

 苫小牧の市長 田中正太郎(4期16年で退任)、4月30日選挙で大泉源郎前助役が当選、市議選定数36に51人が立候補

  

 2月14日  苫小牧市史編さんに着手

 4月 1日  苫小牧港、重要港湾の指定

 4月 1日  国道36号の緑跨線橋が完成し、開通式

 4月18日  道議選、宮本義勝氏当選

 4月20日  苫小牧ビル・ホテルトマコマイ開館

 4月25日  苫小牧港入船式、祝賀会開催

 4月30日  市長、市議選

 10月    苫小牧・札幌間がダイヤル市外通話となる

 10月    市民会館落成式および記念式典挙行

 12月15日 国設モーラップ山スキー場完成

  

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