昭和48(1973)年の第1次石油危機によって、わが国経済は高度成長から安定成長へと向かう。同49年、それまで全道一景気の良い街であった苫小牧にも不況の波が押し寄せてきた。この年を苫小牧民報は「注目を浴びていた苫東開発も、わが国経済の転換に逆らえない情勢となった。苫東という巨大ナショナルプロジェクトに踊らされ、有り余った資金で土地の買いあさりが行われ、庶民から批判を受けた。とにかく一部企業の儲(もう)け過ぎが目についた」(概略、12月16日付)と俯瞰(ふかん)。苫東を巡る政治的対立と不況の影に脅えながら街づくりが進んでいく。
■急ブレーキはかけられない
不況といえども、高度経済成長のトップランナーとして加速した勢いに、急ブレーキはかけられなかった。昭和49年というこの年も、多くの都市施設基盤整備が行われる。前年から駅前中央通の整備が進み、2年前から整備が始まった道道苫小牧環状線(バイパス)の舗装工事に着手、三条通の拡幅も3年計画でスタート。苫小牧西高校横の花園跨線橋も開通した。
商業、民間施設も華やかだ。フジビル、ビジネスホテル於久仁、ウトナイ観光ホテル新館、AコープトマコマイとAコープビル、森林組合第二ビルなどが次々とオープンする。末広町に13階建ての市営高層改良住宅ができたのもこの年。また、全国一の規模を誇る三井観光トマコマイゴルフ場など、ゴルフ場の開設も。高度成長の慣性が働いて都市施設が拡充されていく。
ただ、年の瀬を迎える頃、不動産業の倒産が目立つようになった。民間の設備投資が止まり、住宅新築も減少して木材・建築業に影響を与え始めた。大企業では操業時間短縮、人件費削減、中小企業では従業員の解雇、休業という事業所も出始めた。庶民はといえば、小中学校給食費32%値上げ、電気料家庭用25%値上げ、灯油は450円(18リットル宅配)が700円になるなど物価高騰とインフレに泣いた。
■実力行使、混乱する議会
苫小牧の政治・社会状況は苫東によって「挙市一致」から「対立」へと変わったが、昭和49年に入るといよいよその対立が激化した。苫東の賛否の運動を底流として、市議会がもめた。
まず3月議会では中央港湾審議会で承認された東港建設計画の取り扱いについて「行政報告」(大泉市長)するか「地域懇談会を開く」(社会党)かで、市長が缶詰状態に。6月議会では「市長の報酬、旅費二重取り問題」で百条委員会設置の提案が出されるも否決。提案した社会党は総退場。10月議会では市長の諮問機関をつくる「苫東企業立地審議会条例」を社共の反対を押し切って可決。自民、民社クラブなどが「市職員の職場規律調査特別委員会」設置を提案して可決。12月議会では苫東を巡る論議での「不穏当発言」問題が4件も出て、議会が空転した。
港管理組合議会には、とうとう警官隊が出動した。
同議会第3回定例会2日目の12月7日は午前10時から開会予定だったが、苫東現地着工の引き金となる港湾区域変更が議題とされていることから反対派約70人が議場に入って「傍聴」しようとした。これに対して管理組合は全員が入場できないため「傍聴券」を持たない者の退場を求め、反対派がこれに同意しなかったことから警察官の出動を要請。苫小牧警察署と道警機動隊30人が議場に入って反対派を実力で排除した。異例の事態の中で開催した同議会は、革新系4議員が欠席のまま「港湾区域変更」を可決し、対立はより深まることになった。
■苫東開発前提のまちづくり計画
苫小牧市は昭和48年につくった苫東開発独自案に基づいて苫小牧市総合計画を策定し、同49年度からスタートさせた。昭和55年度までの7年間で、この苫小牧のまちをどのようにしていくのかという計画である。
内容はといえば、基本は「現苫」(苫小牧港西港とその臨海工業地帯)と「苫東」を前提にした街づくりで、48年(基本年度)に12万3400人である人口は55年には20万人に、7年間で7万人増と想定する。世帯数は3万5500世帯から5万8100世帯へ。65歳以上の高齢者人口比率は4・9%から5・4%へとやや増加するが、ほぼ変わらない。地域別にいえば、大きく人口が増えるのは西部の糸井や錦岡で、2万2816人から約4万人増えて6万2400人と見込む。東部に重工業地帯ができるから公害を避けて西部に住宅地をつくり職住分離を進める。その西部と東部を広いバイパスで結ぶ。モノレールや地下鉄といった言葉も出始めた。市街地と勇払は港口の海底トンネルで結ぶ。中央部は弥生、青葉、末広、旭町などで高層住宅化を図る。
産業構造はといえば、就業者全体は5万7300人から10万人に。第1次産業(農林水産)就労者は1200人(2・1%)から900人(0・9%)に減るが、第2次産業(鉱工業)は1万9700人(34・3%)から4万1100人(41・1%)へと2倍以上になり、第3次産業(商業・サービス業)は3万6400人(63・5%)から5万8000人(58・0%)へと約1・6倍になる…。
安定成長期の始まりの時期にこのような計画がスタートしたことを、どう考えればよいのか。ともあれ私たちは現在、この計画の跡をまちのあちこちに見る事ができる。
一耕社代表・新沼友啓
勇払越え山道を発見
昭和49年5月、「勇払越え」の山道を、苫小牧郷土文化研究会の扇谷昌康さんが発見した。江戸時代に使われた勇払と石狩を結ぶ交易路。勇払から川や沼伝いに船でさかのぼり、千歳川を下るというルートの核心部となる美々~千歳の山越え部分で、高台を削ったと思われる幅約3メートルの道路の跡が確認された。後の平成10年、勇払の二本木ひとしさん(当時86歳)がその「勇払越え」を実際に見た記憶を、勇払の記念誌「悠久二百年」に寄せている。
「大正8年、私は美々小学校に入学した。7月のある日、下校の途中に美々と早来の分かれ道のあたりで大勢の人のかけ声を聞いた。御前水の三叉路を越えた左手の坂道を12人の男と2頭の人馬が必死になって登り始めたところだった。2台の金輪馬車を後ろつがいに連結し、それに全長15メートルかそれ以上の船を乗せ、前馬車の両側から太いロープを馬につなぎ、太いロープに細いロープが結ばれて男たちが後ろ向きになって引っ張っている…(略)」(「悠久二百年」より概要)。勇払越えの最後の姿であった。
【昭和49年】
《苫東ドキュメント》
2月 7日 港湾審議会強行開会、反対派が実力阻止
2月13日 第1回苫小牧東部開発関係市町議会懇談会開催
3月13日 社会党議員団苫小牧圏総合開発協力会脱会
3月22日 全道労協現地視察
3月29日 地区同盟条件付賛成決定
4月 6日 道が厚真漁協組支援方針
4月21日 苫小牧東部開発に反対する全道集会
4月24日 苫小牧漁協「条件付き賛成」
8月10日 苫小牧東部開発関係市町会議懇談会発足
10月16日 公害のない東部開発を推進する市民の会発足
12月 7日 港管理組合議会に警官隊
12月25日 運輸大臣港湾区認可
3月15日 ショッピング・パーク、フジビルオープン
3月28日 苫小牧西電報電話局開局
5月12日 苫小牧市民桜まつりが「第一回緑ケ丘公園まつり」に
6月10日 苫小牧商店連合会が「大型店対策協議会」を設置
6月15日 苫小牧市自然環境保全審議会設置
9月 1日 元中野町、新中野町、港町、船見町、入船町の5町新設
9月12日 苫小牧港~ナホトカ港間を定期就航するコンテナ輸送(シベリアランドブリッジ)が苫小牧港に初入港
9月19日 花園跨線橋が全面開通
11月 3日 市役所前と植苗、樽前の「人間環境都市宣言像」除幕式
12月20日 苫小牧東高校、清水町の新校舎に移転