道軟式野球連盟苫支部審判部副部長 成田 昭一さん(63) 野球は財産 尽きぬ情熱 「失敗からの学びが大事」

  • 時代を生きて, 特集
  • 2023年5月20日
苫小牧支部審判部として長年の功績を称える表彰状を手に笑顔を見せる成田さん
苫小牧支部審判部として長年の功績を称える表彰状を手に笑顔を見せる成田さん
市内大会で審判を務める=2016年
市内大会で審判を務める=2016年
朝野球交流試合での記念撮影に写る成田さん(後列右端から5人目)=1996年
朝野球交流試合での記念撮影に写る成田さん(後列右端から5人目)=1996年
中学硬式野球の選抜大会に審判として帯同した際に甲子園球場に立ち寄った時の一枚=2004年ころ
中学硬式野球の選抜大会に審判として帯同した際に甲子園球場に立ち寄った時の一枚=2004年ころ

  北海道軟式野球連盟苫小牧支部審判部の一員として20年、競技を支え続けてきた。現在も同部副部長として幅広い年代の試合に携わり「大好きな野球に関わり続けていられるのは財産です」。

   日本でカラーテレビ放送が始まった1960年、室蘭市で生まれた。テレビ観戦で巨人の王貞治など当時のプロ選手へ憧れを抱き4歳でグローブをはめた。小学校入学前に洞爺湖町に引っ越し、小中学時代を過ごす。「田舎で競技人口が少なくチームがなかった」と小学6年間は遊び程度。年に1度の隣町との交流戦が何よりの楽しみだった。

   中学で野球部に入部。指導者のいる本格的な環境に自然と笑みがこぼれた。放課後から始める練習は日が落ちるまで。大好きな野球にのめり込み、3キロほど離れた自宅に泥だらけの練習着で歩いて帰った日々を懐かしむ。主将も務めるなど仲間からの信頼も熱く、遊撃手や抑え投手として腕を振る選手に成長した。

   人生の岐路になったのは高校入学。受験した公立、私立高共に合格したが家庭の事情で私立を断念。公立の豊浦高校(2006年閉校)に進学した。「思い描いた野球環境ではなかった」と野球部もない中で人集めに尽力したが集まらず、目指した野球の道が遠のく。結局2年時に学校を中退した。間もなく、父の知り合いがいた苫小牧へ移り住んだ。

   1977年に17歳で市内の看板製作会社に就職したが、当時の忘れられない出来事がある。会社の親睦会で訪れた有珠山が、苫小牧に帰った翌日、大規模噴火した。「小学時代に有珠山の裏山でよく友達と遊んでいた。同級生の安否が心配だった」と急いで連絡を取った。命こそ無事だったが泥流被害で死を覚悟するほどだった―との返答に災害被害の恐ろしさを痛感した。

   会社の先輩から朝野球チームの紹介を受けて18歳で再び野球に巡り合う。「息抜きやストレス発散ができる幸せな場だった」。大鷲旗争奪苫小牧朝野球大会で過去に優勝実績のある強豪チームを渡り歩き、レベルの高い社会人にもまれながら「試合に出られない時も多く、チームワークと我慢することを学んだ。それでも一丸となって戦うことなど野球の楽しさを改めて知った」と野球人生を謳歌(おうか)した。

   そんな時、当時の審判部先輩の宝達道博さんから「苫小牧支部の審判チームがあるから入らないか」と誘いを受けた。本を熟読し猛勉強。失敗を重ねながらも少しずつ学びを得た。「場数を踏んだ。成功よりも失敗から学ぶことが大事だなと痛感した」

   今の小学年代は「レベルが高く指導者のすごさも伝わる。泥だらけのユニフォームで駆ける子ども達を見ていると昔の自分と重なり懐かしい」と幼い日々を思い返す。審判歴20年、やりがいを常に感じながら「63歳になり少しずつ疲労も重なってきたが、野球に触れる機会があることは幸せ。動ける間はこの先も続けたい」と野球愛は尽きない。

  (石川優介)

  ◇◆ プロフィル ◇◆

   成田 昭一(なりた・しょういち)1960(昭和35)年2月、室蘭市生まれ。朝野球では鹿野繊維や八州鮨クラブなどかつての強豪でもプレー。2019年から塗装店「成翔企画」を営む。苫小牧市大成町在住。

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