苫小牧を自ら「青年都市」と呼んだのは、何もまちの成長過程を捉えてのことだけではない。実際、このまちの昭和45年の65歳以上人口は5%にも満たず、朝の駅前は高校生たちであふれ、春から「空前の結婚ブーム」などといわれてカップルは披露宴の会場確保に苦労した。苫小牧市青少年センターや屋内スケートリンク(プール)がオープンし、子どもたちの歓声が響いた。これらを、戦後間もなくからの港と臨海工業地帯づくりの成果だとまちづくりに自信を深めた人々は、前年5月に閣議決定された「新全国総合開発計画(新全総)」の目玉の一つである苫東工業基地開発に期待をかけた。一方に、郷土の自然環境を守り文化を確立すべきだと考える用心深さはあったが、「人口は30万人にも50万人にもなり、まちはさらに大きく発展する」という夢の下に、その影は薄らいでいく。
■暮らしは「3C」、人気のカセット
昭和45年のこの頃、人々の生活の中に「3C」が普及し始めた。カラーテレビ、クーラー、自家用車(カー)。全国を見れば、カラーテレビの普及率は20%前後、クーラーは10%ほど。自家用車はそう多くはないが360ccの軽自動車から1000cc、1200ccの普通車に人気が移りつつあった。
ちなみに「新3C」も現れた。セントラルヒーティング、クッカー(電子レンジ)、コテージ(別荘)。さらに「3V」というのも。これはビザ(海外旅行)、ビジット(訪問)、ビラ(別荘)。
苫小牧では若者の間でカセットテープレコーダーが人気を呼んだ。
「ここ数年前からカセットが市内に流行。テープに収められたパッケージをセットするだけで音楽を楽しんだり英会話などの勉強もできるという便利なものだけに大受け。特に中学、高校生から若い層に受けており、レコード店は『これからはカセット時代。売り込みにも力を入れています』と」(苫小牧民報、昭和45年2月9日付)
■「青年都市」は結婚ブーム
この年から数年は、空前の結婚ブームでもあった。戦後のベビーブームで生まれた人たちがそれなりの年齢に達したのである。
この年3月から5月までの3カ月間に、苫小牧市内の挙式、披露宴会場にはざっと350組のカップルから予約があった。樽前山神社にはおよそ50組の挙式予約があり、大安など縁起の良い日には1日に7組ということも。また、披露宴会場では、市民会館と若林会館がそれぞれ99組、ホテルトマコマイと渡辺待合がそれぞれ50組。会場ばかりでなく貸衣装を確保するのも大変。1日10組も予約が入ると業者もお手上げだった。
披露宴が会費制というのは北海道ならではのことのようだが、この頃の披露宴の会費というのは1500円程度。「昨年まで1000円、1300円というのが相場だったが…。秋までには1800円という額が出てきそう」(昭和45年2月23日付、苫小牧民報)
苫小牧には若者の活気があふれていた。
■「両輪」から「対立」へ
この繁栄を持続させようとするものが新全総であり、苫東開発がその目玉の一つであったことは先にも触れた。
大工業地帯を造るにはまず用地の確保が重要であった。苫東工業基地総面積9800ヘクタールのうち民有地は7300ヘクタールであり、道企業局は昭和45年のうちに早くもその60%ほどの買収を終えた。国や地方公共団体の公用地を合わせると買収を終えた用地は70%ほどにもなった。柏原や弁天地区などようやく軌道に乗ったばかりの開拓地や、厚真町などの優良な農地が買い上げられ、大小の摩擦が生まれた。
課題は山積していた。何しろ、この工業地帯をどのようなものにしていくのか、基本計画(昭和46年8月に北海道開発審議会で承認)がまだできていない。
「現在の臨海工業地帯が大成功を収め、宿命的な課題として東部の工業基地化が出てきたわけだが、その規模からみて従来の工業地帯では考えられもしなかった種々の課題が出てこよう。(略)職住分離などによる輸送問題、工業用水の確保、また、生活環境の整備という中で公害の未然防止をどう図るか、1971年以降に持ち越された課題はあまりにも大きい」(昭和45年12月22日付、苫小牧民報)
当時の新聞報道などを見れば、大泉源郎市長が、開発推進とともに自然保護、人間尊重をことあるごとに強調しているのが目立つ。この年1月に開館した苫小牧市青少年センターは科学とともに郷土の自然と文化をテーマとした、この時代の苫小牧の象徴的な施設であった。
しかし、戦後間もなくからの港・臨海工業地帯造りと、新たに浮上した苫東開発で大きく異なるのは、前者が「地元発」であるのに対して後者は「中央発」だという点であった。地元の歴史と願いの中から生まれた港・臨海工業地帯造りは郷土愛という共通項の上で開発と環境保護が車の両輪として何とか収まりをつけてきた。しかし、そのような共通項を持たない苫東開発計画は出発点が根本から異なり、開発と環境保護、中央と地元、官と民など多くの対立構造を生んでいく。苫小牧漁業協同組合は3月、漁民大会を開いて苫東開発反対を決議し、大漁旗を掲げて市中を行進した。
一耕社代表・新沼友啓
■草木一本に苦悩の歴史 柏原部落会長の鮭川さん「骨を埋めるつもりで」
昭和初期の柏原は5、6戸しかなく炭焼きの村だったという。その後入植者が増えて徐々に酪農に転換し、昭和45年には25戸ほどになり、経営はようやく軌道に乗ってきた。
祖父の勘次郎さん以来三代が柏原で暮らす鮭川正長さん(柏原部落会長)は当時次のように話している。
「それが大規模工業基地化問題ですよね。部落は騒然となりましたよ。当然のことと思いますね。お国のためなら協力しましょうという点では一致してますが、永年汗水たらして開拓して来た土地が二束三文で買い上げられるのは我慢がならない」
鮭川さんは東部基地対策協議会の会長でもあり「買収価格を平均三倍に、税金の減免、補償額の再検討などを知事に要望していく」。草木の一本にまで開拓の苦闘の歴史が刻まれているという鮭川さんは「私はここに骨を埋めるつもりで頑張る」と。
(概要、昭和45年6月10日付「苫小牧民報」)
【昭和45年】
《国内外の出来事》
核拡散防止条約が発効(3月)、大阪万博開幕(同)、日本航空機よど号ハイジャック事件発生(同)、ビートルズ事実上解散(4月)、日米安全保障条約自動延長(6月)、ケンタッキー・フライドチキン日本第1号店名古屋に開店(11月)、三島由紀夫割腹自決(同)
1月14日 ハイランドスケートセンター屋内スケート場オープン(夏はプール)
1月15日 苫小牧市青少年センター開館
3月18日 苫小牧漁協が東部開発反対の大会、議決。市内反対デモ行進行う
4月 1日 苫小牧市児童手当制度発足
4月 1日 苫小牧市教育研究所設置
4月23、24日 第1回緑ケ丘公園開き(さくらまつりを改称)
4月25日 苫小牧市文化振興連絡協議会発足
5月10日 東部地区産業公害事前調査実施
7月 1日 寿町、本幸町、高砂町新設
7月12日 市営バス市内運賃均一制を採用(大人30円、小児15円)
8月 苫小牧東部開発土地買収に伴う地権者連盟結成
8月14日 苫小牧市民おどり発表
9月 苫小牧市委嘱の有害環境排除モニター発足
10月9日 苫小牧東部大規模工業基地開発委員会発足
11月1日 北光町、見山町、花園町、啓北町、松風町新設
11月15日 TBS樽前ハイランド開業