昭和44年というこの年。今、古希を過ぎたあなたは10代の若者で、新たな旅立ちに胸を膨らませていた。還暦を過ぎたあなたなら小学校入学前後のあどけない子どもで、この年放送開始の「ハクション大魔王」や「ひみつのアッコちゃん」を普及著しいカラーテレビで見ていただろう。昭和元禄といわれる天下泰平の中で日本はGNP世界第2位を達成した。発展著しい苫小牧では日軽金が操業を開始し、話題の中心となった。街の人口は10万人を突破し、30万人、50万人の大都市を夢見た。繁栄の半面には大学紛争や安保闘争、公害問題があり、急速に移り変わる社会の矛盾が表面化し始めていた。しかし、時代の大勢はなおも成長を望み、新全国総合開発計画が策定され、その申し子の苫東開発計画が浮上して、まちのつくりと人々の心情を大きく変えていくことになる。
■日軽金操業は成功の証し
苫小牧港の利用開始以来の臨海工業地帯への企業進出の中でも、日本軽金属苫小牧精錬工場の操業開始は、画期的な出来事であった。原料のボーキサイトや大量の電力を使ってアルミニウムを精錬するこの産業は、ソーダや石油化学、火力発電などを裾野に持つ。一つの工場進出というのではない。多くの業種、工場の連鎖的な進出が見込まれ、苫小牧臨海工業地帯の基幹産業の一つと成り得るものだったのである。
道央新産業都市計画では、苫小牧の臨海工業地帯に鉄鋼、石油精製、石油化学などを誘致して1900億円の工業出荷額を上げようとする。しかし、基幹である鉄鋼の誘致が難しく、これに代わったのがアルミ工業であった。
工場は前年春から建設工事に入り、44年10月には操業を開始、11月6日にはホットメタルを初めてくみ上げる初湯式が行われた。
「これで苫小牧臨海工業地帯づくりの成功が決定づけられた。工業地帯造りを始めてから日軽金の進出ほど大きな関心と期待を持って迎えられたものはなかった」(昭和44年12月16日付「苫小牧民報」)
工場だけではない。公害を避ける職住分離のまちづくりの中で新造成の糸井団地(現日新町)には日軽金と関連企業の社宅が建ち並び、購買所ができ、後の日新小学校の開校式は日軽金会館を借りて行われた。同小学校の校歌の「拓けゆく工業都市百年の歴史を誇り」の歌詞が、これらのことをよく表している。
■人口10万人とカラーテレビ
港造りと炭鉱離職者の流入、企業進出の中で、苫小牧市の人口は増え続け、昭和44年7月、10万人に達した。10万人目の市民となったのは美園町に住む夫婦の長女。欧米視察中の大泉源郎市長に代わって新岡正敏助役が夫婦宅を訪れ、記念品を手渡した。
茶の間には、東京五輪以来普及し始めたカラーテレビが登場していた。
カラーテレビは昭和43年にNHKがカラー番組を大幅に増やしたことから普及が促進され、苫小牧でも家電コーナーにパナカラー、トリニトロンカラー、キドカラーなど各メーカーの製品が競うように並んだ。
この頃、市内でカラーテレビを扱っていた電気店は50店ほど。この年3月ごろ市内には2500台ほどのカラーテレビが出回っていたと推測された。
「春のうちにさらに1500台から2000台売り込もう」と業界筋は考え、各店がしのぎを削った。値段は19インチで18万3000円ほど。大卒初任給が3万1200円(全国平均)だったから、かなり高価なものだった。それを販売競争の中で4万円も値引きする店まで現れ、乱売となった。
アッコちゃんや大魔王ばかりでなくキックボクシングが人気を呼び、人々は空飛ぶ人間爆弾・沢村忠の「真空飛び膝蹴り」に拍手を送った。しかしテレビは強い。苫小牧で予定されたキックボクシングの試合は、全国テレビ放送録画の都合で試合日程が変更されて主催者がファンにわびを入れた。
■苫東工業基地開発の始まり
ともあれ、カラーテレビはマイカー、クーラーと共にこの時代の3種の神器とされ、豊かさの象徴であった。
その豊かさ、高度経済成長をこの先も続けようとした国策が「新全国総合開発計画(新全総)」(昭和44年5月閣議決定)であり、その北海道での目玉が苫東工業基地開発であった。
新全総は、太平洋ベルト地帯を中心とした巨大都市への集中がもたらした高度経済成長のカベを打ち破り、歪みと格差を是正すべく打ち出された。それは、高速鉄道・道路、空港などの空・陸の交通、通信ネットワークを全国的に整備し、苫小牧東部(北海道)、むつ小川原(東北)、秋田湾(東北)、西瀬戸(中国)、志布志(九州)など地方拠点に大規模工業基地を新たに建設することによって、高度経済成長を継続しようとするものであった。
新全総の閣議決定を受けて翌年には「第三期北海道総合開発計画」(昭和45年7月閣議決定)が策定され、昭和46年8月には「苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画」が姿を現す。
「苫東開発の実現には用地の確保が必要」と早くも昭和44年10月、北海道企業局苫小牧東部工業団地開発事務所が発足し、翌月には用地の先行取得が開始される。
昭和44年、このまちと人々の心は、大きな曲がり角に差し掛かっていた。
一耕社代表・新沼友啓
■「好きなことで過ごした青春に満足」 世界的鳥獣採集家の折居彪二郎さん
開発が進む勇払原野の一画、美々川のほとりで、この原野の自然をこよなく愛した世界的な鳥獣採集家・折居彪二郎さん(昭和44年当時85歳)が静かに暮らしていた。大正から昭和にかけて山階鳥類研究所などの依頼を受けて樺太、朝鮮、南太平洋、東南アジアなどを巡り、鳥獣を採集して研究に寄与した。その捕獲と剝製技術は群を抜き、多くの新種を発見して「東洋のオリイ」と呼ばれた。その折居さんが、この年の干支(えと)の「酉(とり)」にちなむ苫小牧民報のインタビューに、次のように答えている。
「満州の夢嶺山という集落に標本採集に出かけ、馬賊に襲われたり、未開の現地の人と生活したり、いろいろな思い出があります。当時は鳥の研究費はほとんどなく、せっかく作り上げた鳥の標本を外国に売りさばいて金に換えたこともありました。静かで、野鳥がすんでいるところに住みたいと植苗に住み着いたのですが、今ではここが私の墓場になりそうです。耳が遠くなったのは、30万発もの鉄砲を撃ったからでしょう。自分の好きなことをやって青春時代を過ごしたという満足感でいっぱいです」
(概要、昭和44年1月1日付「苫小牧民報」)
折居さんは翌昭和45年4月に亡くなった。
【昭和44年】
《この年姿を現したもの》
苫小牧港管理組合新庁舎、多階建・汐見町の漁民アパート、道立苫小牧保健所新庁舎(以上1月)/浅野晃詩碑(6月、勇払)/勤労青少年ホーム(12月)他
《この年姿を消したもの》
新川通北側の旧消防署望楼(4月)/市営バスの樽前スカイラインコース(7月)/苫小牧郵便局による日曜配達(9月)/苫小牧市公益質屋(10月)他
3月10日 駅前通りの副道位置が決定
6月 7日 第1回苫小牧公害対策審議会開催
6月27日
~7月1日 産業公害総合事前調査実施(海域汚染)
7月12日 苫小牧市の人口10万人となる
10月10日 日軽金苫小牧製造所一部操業開始
10月13日 札幌オリンピック選手強化合宿所完成
10月21日 北海道企業局苫小牧東部工業団地開発事務所発足
10月31日 日本軽金属苫小牧精錬工場で、アルミニウムのホットメタル第1号の初湯式
11月 6日 道企業局が苫東基地用地の先行取得を開始