苫小牧高等商業学校理事・顧問 高橋 信一さん(72) マンドリンで人生豊かに 演奏通じて自己改革 病で挫折も

  • 時代を生きて, 特集
  • 2023年4月15日
「マンドリンなしでは人生を語れない」と話す高橋さん
「マンドリンなしでは人生を語れない」と話す高橋さん
ネーピア市で行われた交流事業に妻の裕子さん(右)と参加し、マンドリン演奏を披露した高橋さん=1996年
ネーピア市で行われた交流事業に妻の裕子さん(右)と参加し、マンドリン演奏を披露した高橋さん=1996年
日本大学のマンドリンクラブ定期演奏会。前列左から5人目が高橋さん=1974年
日本大学のマンドリンクラブ定期演奏会。前列左から5人目が高橋さん=1974年
苫小牧高等商業学校の前嶋フク理事長の百寿を祝う会で、集合写真に納まる高橋さん(前から3列目の右端)=2022年
苫小牧高等商業学校の前嶋フク理事長の百寿を祝う会で、集合写真に納まる高橋さん(前から3列目の右端)=2022年

  マンドリンとの出合いが人生を大きく変えた―。人前でうまく話せなかった少年期を乗り越えて、教育の道に進み、8月で教員人生49年。「マンドリン演奏を通じて、人の目を気にしない自信が付いた」と振り返る。

   太平洋戦争の終結から5年後、朝鮮戦争が勃発した1950年に、炭鉱で栄えた空知の町で1男3女の末っ子長男として生まれた。少年時代は引っ込み思案。左利きを無理やり右利きに変えさせられたことから精神的なストレスも負い、「小中高は大勢の人を前にすると、何も話せず苦しかった」。父の背中に憧れ、いつしか教員になりたいと夢を抱いたが、「今の自分にはできないだろう」とコンプレックスに苦悩する日々だった。

   高校卒業後、「何とか克服しないと、教員にはなれない。私を知る人がいない土地で、まず自分をリセットしなければ」との思いで上京し、日本大学に進学。右も左も分からないまま、都会生活を始めた。

   転機はすぐに訪れた。入学した大学で耳に届いたマンドリンの美しい音色―。その楽器と音楽に魅せられた。演奏経験はなかったものの、すぐさまマンドリンクラブに入部。部員は60~70人という大所帯だったが、練習を通じて人とのコミュニケーションにも次第に慣れていった。自信を付け、3年生の頃には、人間関係をなかなか築けない長年の悩みが消えていた。

   74年、苫小牧高等商業学校に商業科目の教員として採用された。苫小牧マンドリン合奏団にも所属し、96年には苫小牧市の交流事業で姉妹都市ニュージーランド・ネーピア市へ訪問し、演奏を披露した。

   「退職後はマンドリンざんまいの日々を送る」。そのつもりだったが、定年退職直前の2010年、原因不明の高熱と全身の痛みに襲われた。何度検査しても病名が分かからないまま、数カ月が経過。他の病院で診察と検査を受けたところ、膠原(こうげん)病と分かり、2カ月間の入院を余儀なくされた。

   退院から2カ月後、久しぶりにマンドリンに触れた、その感触に衝撃を受けた。「別人の手のように、弾けなくなっていた」。想像もしていなかった出来事に頭の中は真っ白に。何度も練習を続けたが、元に戻ることはなかった。「40年間積み上げてきたものが一瞬にして吹き飛んだ」。ショックのあまり、「合奏団の仲間に別れも告げずに退団した」と言う。

   大切に使っていた愛器は現在、後輩の元にある。演奏活動から離れたものの、「自己改革、挫折、どちらも味わわせてくれた」と、今では人生を豊かにしてくれたマンドリンに感謝する。きょうもどこかで響く音色を頭に浮かべ、次なる挑戦を探している。(樋口葵)

 ◇◆ プロフィル ◇◆

  高橋 信一(たかはし・しんいち) 1950(昭和25)年9月、歌志内町(現歌志内市)生まれ。日本大学4年の時、マンドリンクラブ指導者の宮田俊一郎氏、東京ビバルディ合奏団と共演しレコーディングに参加。教員を務めながら、苫小牧青年会議所や北海道中小企業家同友会苫小牧支部の活動にも力を注いだ。安平町在住。

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