世界初の内陸掘り込み式港湾開港が間近に迫った1963年春、苫小牧の地をはじめて踏んだ。王子製紙苫小牧工場のお膝元。工場社員が暮らす長屋がずらっと立ち並び「釧路と似てるな」。懐かしさを覚えた。
父は釧路太平洋炭鉱の鉱員。社宅の風景は苫小牧とうり二つだった。少年時代に励んだスポーツはもっぱら野球や剣道。スキーは小学生の頃に買ってもらった木製板を履き、自宅裏の小高い丘で真っすぐ滑り降りる程度だった。
本格的にスキー競技を知ったのは大学1年生。体育科の実習で、北海道スキー連盟の技術委員から指導を受けた。当時は上体を進行と逆方向にひねるオーストリア式ターンが主流で、こつをつかむのにひと苦労。「よく怒られた」。それでも白銀の山を勢いよく滑降するスピード感と爽快さを味わい、一気にとりこになった。
2年生で全日本スキー連盟の技能テスト1級を取得、翌年には救護などを行うスキーパトロール資格も取り毎冬ゲレンデに通った。
卒業後、高校の体育教員になって最初の赴任地が苫小牧。大学の恩師から「苫小牧はスケートのまち。スキー場なんて無いぞ」と言われて覚悟したが、赴任した63年12月に支笏湖畔のモーラップスキー場がオープン。2年後には苫小牧スキー連盟が創立された。
藤島さんは67年、同連盟初となる難関の準指導員検定に一発合格。翌年には指導員資格も手にした。20代で各種検定などに当たる道技術員にも指名され、「また先生と一緒に滑りたい、習いたいと思われるような指導者を」と後進育成に力を注いだ。
さらなる普及のヒントをくれたのは、道外の高校生たちだった。苫小牧東高校教員時代の先輩が千葉県の成東高へ転勤。「スキーの楽しさを生徒に体験させたい」と、70年に指導依頼を受けた。そこから25年間、雪の白さ、冷たさ一つでも感動を覚える高校生らと接し「新しい発見の日々だった」。
これをスケートのまち苫小牧でも―。88年、苫小牧西高に赴任すると、宿泊研修にスキー実習を取り入れた。市内の他校も次々採用。この頃、苫小牧スキー連盟所属の指導者が節目の100人を数えるなど、競技の裾野は想像以上に広がった。「競技普及に尽力された先輩たちに少しながら恩返しできた気持ちだった。肩の荷が下りた」と振り返る。
一方で95年、モーラップスキー場が閉鎖。スキーブームも次第に落ち着き、いっとき148人まで増えた指導者は高齢化などで半減した。「まず指導者である自分たちが、積極的にスキー場に行くことが大切」。藤島さんは80歳を超えた今も毎冬、全国のゲレンデで競技指導に汗を流す。
「この年になっても、どうしたら早く、効率良く上達できるかを日々考えてますよ」。探求心はスキーに夢中だった若き日のままだ。
(北畠授)
◇◆ プロフィル ◇◆
藤島 勝雄(ふじしま かつお) 1941(昭和16)年3月、釧路市生まれ。北海道学芸大(現道教育大)釧路分校、札幌分校を経て63年4月、苫小牧東高定時制の体育教師として赴任。学生時代に出合ったスキーのとりこになり、苫小牧スキー連盟会長、北海道スキー指導者協会会長などを歴任。競技普及に尽力した。現在は苫小牧連盟、道指導者協会の両名誉会長。苫小牧市見山町在住。