東日本大震災が起きた年に退職し、勤務先のあった本道で余生を送る恩人と、つい先日、手紙を交換した。東北地方の出身で、12年前の3月、ふるさとの地が大被害に遭っていた。今もつらく忘れ難い経験は癒えない―としたためていた。日ごろ明朗な人柄だけに察するに余りある悲しみが文面からにじんだ。生きる者の義務としては、自らが与えられた人生をしっかりと生きていくことかと思います―ともあり、まさに同感だった。
あの巨大災害の後、前任地の千歳市であった「災害避難所の宿泊訓練」に二冬続けて参加してみた。真冬の大地震にまちが揺れ、社会の機能が大きく損なわれた。開設された指定避難所は電気、ガス、水道が停止。非常用照明のみが自家発電で生きている―との想定下、その避難所に擬した公共施設で訓練を受けた。
参加者が協力して資機材を運び込み、非常食も調理した。非常時用の段ボールベッドを作り終えて午後10時消灯。重ね着してきた冬用コートを布団代わりに掛け、寝袋で眠った。2年目の訓練時、外気温最低は氷点下14度まで下がり、室内温度最低は5度と冷え込んだが無事に目覚められた。災害時には、まず「自助」できるよう備え、次いで助け合う「共助」の大切さを確かめた経験だった。(谷)