美術が持つ力を社会に役立てる臨床美術士として活動に励む。その傍らで高齢者の居宅介護支援などを行う会社の社長を務め、80歳を過ぎた今も第一線で活躍している。
第2次世界大戦が始まった激動の1939年に札幌市で生まれた。父親の仕事ですぐに樺太(現サハリン)の恵須取町(えすとる)へ移り住み、ソビエト軍が島に侵攻した戦時下を体験。戦後の小学3年生まで過ごした。終戦から4年後の49年、家族で樺太から札幌市へ引き揚げた。当時はひどい食糧難で、栄養不足によって虚弱体質に。一時学校も休みがちになり、留年も経験した。「ご飯をあまり食べられない時代だった」と振り返る。
戦後の混乱期、子どもにとっても厳しい環境にあったものの、大好きな絵を描くことで元気になれた。中学校では美術部に所属。美術展で入賞するほど腕前を上げていった。中学3年生の時、父親の仕事の関係で苫小牧市へ引っ越し、55年に苫小牧東高校へ進学。美術部に入り、部室で日々キャンバスと向き合い、北海道高等学校文化連盟主催の絵画展に作品を出展するなどして「仲間と腕を磨き合った」と言う。
美術の道を歩んでいきたい―。思いを募らせ、高校卒業後、東京の女子美術大学美術学部日本画科に進学。日本画の巨匠片岡球子氏(故人)に師事した。「片岡先生からは技術的なことや絵を描く姿勢、美術に対する考え方など、根本から深く教わった」と恩師を懐かしむ。
高度経済成長の真っただ中の63年、大学を卒業。苫小牧に戻り、卒業制作で描いた絵画「叫び」を苫小牧美術協会展に初出品し、最高賞の協会賞に輝いた。65年には苫小牧女子高校(現苫小牧中央高校)の美術教師に。しかし、持ち前の向学心は尽きず、「技術や指導力をさらに高めたい」と考えて8年で退職し、札幌のデザイン専門学校に2年間通学。卒業後、駒大苫小牧高校から声が掛かり、美術教師として復職し、99年まで教壇に立った。
教員生活を終えた後の2000年、母親が営む介護事業のケア・サービス苫小牧に入社し、03年に社長に就いた。教師の世界とは全く異なる企業経営に戸惑いを感じたものの、職員とのコミュニケーションを常に意識し、トップとしての信頼を勝ち取ってきた。介護事業の功績が認められ、17年には厚生労働大臣の表彰も受けた。
企業運営に忙しい日々を送る中でも、道内外の絵画展に毎年出品するなど芸術活動も続けた。長く携わってきた美術を地域社会に生かしたい―と13年、人の心の健康づくりにも役立つ臨床美術の資格を取得。子どもから大人まで幅広く創作指導に当たった。現在は苫小牧市民活動センターで「いきいきアート教室」の講師を務め、「介護の仕事や美術を通じて社会に貢献したい」と使命に燃えている。
(陣内旭)
◇◆ プロフィル ◇◆
菊地章子(きくち・しょうこ)。1939(昭和14)年5月、札幌市生まれ。苫小牧美術協会と全道美術協会の会員、行動美術協会会友。脳を活性化させる臨床美術の普及に力を入れる。動物が好きで、6匹の猫を飼っている。苫小牧市青葉町在住。