今から77年前の1945年8月6日、人々からすべてを奪い、地獄をもたらす原子爆弾が広島市に落とされました。大きな煙が広島の空に広がり、町や人々を黒く染めていきました。見てください、自分の手を。あの時熱線が町を襲い、一瞬でその手の皮膚がはがれ、垂れ下がり誰かわからなくなるほど顔が焼けただれました。生き残った人たちは家族を探し回りました。何日も何日も…。そして原爆による被害は戦時中だけではなく、今もなお人々を苦しめ続けています。私たちは、そんな悲惨な出来事を繰り返さないために、平和を未来へつないでいく責任があります。今回の研修で、数多くの尊い命が奪われる戦争は二度と起こしてはいけないことだと実感しました。被爆者の方からつないでもらった平和のバトンを、今度は私たちがつないでいく番です。二度と戦争を起こさないために、平和な世界をつくるために、私たちが責任をもって後世に伝えていくことを誓います。
これは、先日行われた「苫小牧市平和祈念式典」で中学生広島派遣者を代表して私たちが朗読した「平和の誓い」です。
私は将来自衛官という職に就きたいという夢をもっています。なぜその職を選んだかというと、災害や紛争などの映像の中で、人命救助に尽力する、自衛隊員の勇敢な姿に強く感銘し、自分もいつか多くの人々を助けられる人間になりたいという思いが日に日に強くなってきたからです。
そんなある日、苫小牧市非核平和事業の一環として行われている、中学生広島派遣事業への参加募集案内を目にしました。
「過去の日本ではどういう被害があったのか」「核のない平和な世界を目指すとはどういうことなのか」「今の自分にできることはないのだろうか」。様々な思いから、応募することに決めました。
晴れて苫小牧市中学生広島派遣団の一員として広島を訪問した私は、原爆資料館で見たその光景に言葉を失うくらいの衝撃を受けました。真っ黒こげになった弁当箱、高熱で溶けたガラス瓶…。原爆の凄まじい威力を改めて見せつけられました。
また、原爆投下当時、残留放射線によって被爆した豊永恵三郎さんのお話も聞くことができました。1945年8月6日、いつも通りの平和な朝を迎えた広島市にリトルボーイと呼ばれる原爆が投下されました。名前からは想像もできない恐ろしいほどのその威力は、広島を一瞬にして焼け野原にしてしまったそうです。当時9歳であった恵三郎さんは通院のため100キロほど離れた病院に行く途中でしたが、真後ろから聞こえたすさまじい爆発音は今でも耳に残っているそうです。急に不安になり、急いで家に戻るのですが、帰りの電車を待つ間に町の方でとてつもなく大きな黒煙が上がり、その黒煙が「ルーズベルト」と「チャーチル」という人物の顔に見えたそうです。彼らは当時の敵国であるアメリカの大統領と、イギリスの首相でした。恵三郎さんは学校でアメリカ兵やイギリス兵は人間じゃないと教わっており、まさにその2人の顔が思い浮かんだそうです。その後も恵三郎さんの口から出てくる言葉は壮絶な話ばかりでした。どうして人はこんなにまで非情になれるのだろうか。話を聞くにつれ私の中で怒りがこみ上げると同時に、こんなことも知らずに平和な人生を歩んできた自分が情けなくなってきました。
今、世界ではロシアとウクライナの紛争や北朝鮮のミサイル実験など関係がないとは言い難い危機的な状況にあります。だからこそ世界で唯一の被爆国である日本が行動を起さなくてはならないのです。一人一人がこの事実をしっかりと受け止め、一人でも多くの人が行動を起こさなくてはなりません。
私は今回のこの派遣事業で経験したことを胸に、自分の夢を実現することで、次の世代に向けて「平和へのバトン」をつないでいきたいと強く願っています。