北洋大学教授 山田 利一さん(73) 海外への憧れ入り口は映画 苦労重ね学者の夢実現「映画史の本出したい」

  • 時代を生きて, 特集
  • 2023年1月14日
「映画に出てくる大学教授の自由な姿に憧れた」と話す山田さん
「映画に出てくる大学教授の自由な姿に憧れた」と話す山田さん
横浜市にあった自宅の庭で。1歳ごろの山田さん=1950年
横浜市にあった自宅の庭で。1歳ごろの山田さん=1950年
父親の法事に集まった親戚と記念撮影。最後列左が山田さん=1980年ごろ
父親の法事に集まった親戚と記念撮影。最後列左が山田さん=1980年ごろ
48歳で授かった長女を連れて観光に出掛けた静岡県浜名湖で=1999年
48歳で授かった長女を連れて観光に出掛けた静岡県浜名湖で=1999年

  団塊の世代と呼ばれる戦後のベビーブーム時代に生まれ、子どもの頃から洋画に親しんだ。映画館のスクリーンに描かれた外国の光景に心が動かされ、いつしか海外に関わる仕事を志すようになった。現在、北洋大学の教授として米国文化論を教えている。

   第2次世界大戦後の混乱期、1949年に横浜市で産声を上げた。古くから海外貿易の港まちとして栄え、異国情緒が漂う街並みの都会で育った。当時の横浜は占領軍による日本上陸の玄関口。まちなかで幼い目に映った駐留米兵の姿を今も覚えている。

   幼児期に東京へ引っ越したが、小学生の頃は長期休みになるたび、横浜にあった祖父母の家へ泊まりに行き、まちの映画館に入り浸った。大好きな洋画の中でも特に心が引かれたのは米国映画。エンジントラブルを起こした旅客機の運命を描いた「紅の翼」、米陸軍部隊の闇を表現した「地上より永遠に」―。作品の世界に引き込まれ、海外への憧れを募らせた。中学校に入ると、外交官か国際政治学者になる夢を抱くようになった。

   高度経済成長期の69年、東京の明治学院大学法学部に入学したが、法律の勉強になじめず、外交官の夢も断念した。「一度、社会経験を積もう」と、英語が使える人材を求めていた鹿島建設(東京)に入社したものの、「トンネルやビル工事の現場が中心で忙しいばかり。人生を後悔したくない」と3年で退職した。

   残されたのは学者の道。国際政治を専門としたかったが、大学講師の募集はほとんどない。「英語教諭であれば需要がある」と一念発起、77年に母校の文学部英文学科3年に編入学した。大学院修士課程で英文学の学問を深め、複数の大学を掛け持ちしながら非常勤講師を務めたが、常勤ポストの門は狭かった。

   44歳で結婚したが、東京での暮らしは厳しいままだった。学者としてステップアップしてポストを得るため、博士号を取得しようと96年、47歳で横浜の関東学院大大学院博士課程に入学した。妻子を抱えながら必死に研究に励み、3年後に念願の博士号を得たが、なかなか正規の職につながらない。90年代は国の大学院重点化政策で博士号取得者が急増し、ポスト不足を招いていたからだ。住宅ローンも払えないほど家計は火の車だったが、先が見えない。非常勤講師という「いつ首になるか分からない状況」に悩み続けた。

   「全国の大学に送った履歴書は100通以上」。ようやく正規で就職できたのは2003年、54歳の時だった。「それまで何とか家族を養うことはできていたが、つらかった」と回想する。埼玉県の日本工業大で教授を務めた後、15年に苫小牧駒沢大(現北洋大)へ転職した。生活は安定していき、「自分の好きな授業や研究ができて楽しい」と、かつての苦労も今ではいい思い出だ。73歳の次なる夢は「映画史に関する研究で本を出すこと」と目を輝かせた。

 (樋口葵)

  ◇◆ プロフィール ◇◆

   1949(昭和24)年8月、横浜市生まれ。週に3本は作品を鑑賞するという映画好きで、苫小牧市本町のミニシアター・シネマトーラスはお気に入りの場。苫小牧市美術博物館協議会委員。苫小牧市若草町在住。

      ◇

   戦争、高度経済成長、バブル崩壊、インターネット社会―。移りゆく時代の中でどんな人生を歩んできたのか。苫小牧や近郊の人々の物語に耳を傾けた。

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