「世界の人たちと良い関係を築いてほしい」
そうした思いで長年、苫小牧市内の中学や高校で英語を教え、海外の人々と文通するペンフレンド活動もけん引。苫小牧の国際交流の発展に貢献してきた。
ドイツでヒトラーが首相となり、世界がファシズムに傾斜していった1933年、山形県上山市で4人きょうだいの次男として生まれた。日中戦争、太平洋戦争と暗い戦時の暮らしを経て、アメリカなどの占領下にあった敗戦後の46年、地元の中学校に入学。戦後に英語教育が再開された学校で、教師の熱心な指導を受け、「次第に英語の授業が面白くなった」と振り返る。
49年に進学した地元の高校では英語部に入部。英語劇や外国人との交流といった部活動にのめり込み、海外への憧れを強くした青春時代を送った。
教師を目指して53年、山形大学教育学部に進み、英語を専攻した。勉強にいそしむ傍ら、米軍駐留地のアメリカ人とも積極的に関わりながら英会話力を高めていった。
卒業後の57年、苫小牧市の勇払中で教員生活の一歩を踏み出した。27歳で妻たみさんと結婚し、4人の子宝にも恵まれた。
弥生中に勤務していた68年、道教育委員会が実施する難関の英語教員海外研修試験に合格。1年間、米国に滞在し、マサチューセッツ州の大都市ボストンの中学校や高校で日本語の文字や歴史などを教え、現地の子どもたちに遠い異国の日本について紹介した。
いつかはアメリカに行って、人々と触れ合いたい―。青春期からの夢をかなえ、「充実の日々を過ごした」と回想する。
帰国後、海外研修の経験を生かし、市内の中学校で再び教え、世界へ視野を広げる大切さを生徒に訴え続けた。94年に和光中を最後に退職。同時に国際文通や国際交流の活動にいっそう力を入れた。
青少年ペンフレンドクラブ苫小牧連合(旧郵便友の会連合会)の団長として、メンバーを率いてマレーシアを訪問したことも。「文化交流で現地の学校を訪れ、授業風景を見学したが、どの子も目を輝かせ、生き生きとしていたのが印象的だった」と思い返す。
「平和」「友愛」「教養」を信条とするペンフレンドクラブのさまざまな取り組みは、苫小牧の国際交流を後押しし、幅を広げることにもつながった。80代後半になった今も活動に関わっているほか、苫小牧高等商業学校から依頼を受けて英語講師として教壇に立ち続けている。
「国際共通語の英語を生かし、世界の人たちと仲良くなってほしい」。ロシアのウクライナ侵攻など国際平和の秩序が揺らぐ情勢にあるからこそ、その願いは強まるばかりだ。
(石川優介)
岩瀬義一(いわせ・ぎいち) 1933(昭和8)年8月20日、山形県上山市生まれ。世界の国々のコースター集めなど趣味は多彩。地元しらかば西町内会青少年部長を長く務め、地域の子どもたちに昔遊びなどを伝える活動にも取り組んでいる。苫小牧市しらかば町在住。