元グラフィックデザイナー 築地 謹蔵さん(78) 港まつりポスター7度手掛ける 素朴さ 手書きで表現 「配色考えるのが楽しい」

  • ひと百人物語, 特集
  • 2022年10月1日
自身のデザインが初めて採用されたとまこまい港まつりポスターを手にする築地さん
自身のデザインが初めて採用されたとまこまい港まつりポスターを手にする築地さん
東京都内で休日を過ごす18歳の築地さん=1962年
東京都内で休日を過ごす18歳の築地さん=1962年
札幌のデザイン会社の慰安旅行で同僚と写真に収まる(前列中央)=1971年
札幌のデザイン会社の慰安旅行で同僚と写真に収まる(前列中央)=1971年
勤め先でカタログのデザインを手掛ける=1970年ごろ
勤め先でカタログのデザインを手掛ける=1970年ごろ

  12種類のポスターカラーから無数の色を生み出す。色彩あふれる絵が持ち味だ。約45年間、グラフィックデザイナーとして活動。「素朴さを大事にしたい」との思いから、いつの時代も手描きを信条とした。

   戦時下の東京都台東区で生まれた。4人兄弟の一番上。幼い頃から絵を描くのが好きで、「物心が付いた時から赤や黄色のチョークを握っていた」。自宅には朝日新聞で漫画を連載していた六浦光雄氏と妻が同居。「六浦さんが絵を教えてくれた」と振り返る。

   中学卒業後、美術の専門学校に入学。風景画や幾何学模様のイラストを得意とし、「アイデアという名の月刊誌を見ては毎回刺激を受けていた」と話す。

   グラフィックデザイナーの第一人者で、1964年の東京五輪の公式シンボルマークやポスターでも注目を集めた亀倉雄策氏に憧れ、62年、18歳のときに東京のデザイン会社に就職した。だが、現実は「運び屋」の毎日。オートバイで依頼者に絵を運んでは「もっとこうして」と注文を受け、それをデザイナーに伝えるだけの日々だった。3年たっても、絵を描く機会に恵まれなかった。

   66年、父親の転勤先の札幌市へ移住。友人の紹介で同市にあった「白井デザイン」に職を得た。百貨店の包装紙をはじめ、スーパーのチラシや絵本の挿し絵など多種多様なデザインを手掛ける会社だった。中間色を多く使用する着物のカタログの絵には特に苦労し、何度も依頼者と打ち合わせを重ねた。グラフィックデザイナーは要望に合わせ、絵のタッチを変えなければならない。「難しかったが、ここでの経験は勉強になった」と語る。

   腕を磨き、79年、35歳で独立。同市に「築地デザインスタジオ」を構えた。いろんな仕事が舞い込み、徹夜でこなしたことも。デザイナーとして充実の日々を送ったが、それまでのサラリーマン人生とは異なり経営能力も試される。結局は「どんぶり勘定」となり、気付けば経営難に。4年ほどで会社を畳んだ。

   苫小牧市に移り住んだのは95年、51歳の時。以前、取り引きのあった須田製版(本社札幌市)苫小牧支店に入社した。末広町のマンションの一室を借りて、社員ら6~7人で仕事に取り組んだ。培った技能を生かして約15年間、ひたむきに働いた。

   現役を退き、70代後半になった今でも、頼まれて絵を描くことがある。最近も友人が音羽町で営むすし店の50周年記念イラストを手掛けた。「自分の作品をまちの中で目にすると、うれしくなる。出来上がったときの快感は何とも言えない」とほほ笑む。

   使う絵の具にもこだわりがある。チューブタイプが主流でも、好みの瓶入りをを使って自身の世界観を表現する。「配色をあれこれ考えるときが実に楽しい」。幼い頃に芽生えた創作意欲は今も衰えない。

 (樋口葵)

   築地 謹蔵(つきじ・きんぞう) 1944(昭和19)年5月、東京生まれ。とまこまい港まつりポスターの一般公募に毎年応募し、今年で7回目の採用となった。毎日の晩酌が楽しみ。一番の幸せは「風呂上がりの冷たいビール」と言う。苫小牧市宮の森町在住。

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