「東京時代といちばん変わったことはなに?」と聞かれたら、迷わず「クルマの運転ができるようになったこと」と答えるだろう。
私は若いときに一度、自動車の運転免許を取ったのだが、あまりに運転が苦手で何度か怖い思いもしたので更新をやめてしまった苦い経験があるのだ。「いずれ地域医療の仕事がしたい。それには運転が必須だ」と再取得にチャレンジしたのは今から何年も前だが、無事に取れたのはよいものの、それ以来、実際に運転はしていなかった。
穂別診療所への赴任が決まり、東京ではじめてマイカーを購入。何度か練習したが、やっぱり苦手意識は変わらない。クルマとともにやって来た穂別では、なんとか診療所と宿舎の間はクルマ移動できるようになったものの、東京との往復のため新千歳空港まで行くのは”夢のまた夢”という状態が続いた。
「それじゃいけない」と気付かせてくれたのは、診療所で出会った高齢の女性患者さんだった。最近、胃の調子が良くないというその人に幾つか検査をし、処方の調整を行い、私は言った。「これで少しは良くなるはずですが、今日、お家まで帰れますか。この住所だとバスですよね?」
するとその人は答えた。「いや、いつもクルマで動いてるから。大丈夫、運転して帰れますよ」
私は自分が医者であることを忘れ、思わず「運転してるんですか! 私、運転が苦手なんですよ、すごいですね!」と言ったのだが、その言葉を聴いて彼女の表情がキリっと変わった。そして、それまでとは違う力強い口調でこう言ったのである。
「先生、苦手なんて言っちゃダメだ。運転は慣れだよ。ここで運転できないと生きてけないよ。私だって気を付けながら運転してるんだから、先生も頑張らなきゃ」
その言葉を聞いてから、私は本気で運転の練習を始めた。最初は10キロ先に行ってUターン、次は20キロと少しずつ距離を延ばし、ついに穂別から空港まで行けたときは、これまで味わったことがないほどのうれしさを感じた。
もちろん今でも、完全に運転をマスターしたとは言いがたい。道路を横断するシカやキツネにもいつもひやひやする。「やっぱり向いてないかも」と思うこともあるが、そんな時にはいつもあの80代の女性患者さんの言葉がよみがえる。「先生も頑張らなきゃ」。その人のことは、心の中で”私の運転の先生”と呼んでいる。
(むかわ町国民健康保険穂別診療所副所長)