第1部(2)幕開けと共にバブル崩壊 「地元第一」苦しくても雇用守る

「地元に成長させていただいたので、地元に貢献し続ける会社でなければ」と石橋元副社長
「地元に成長させていただいたので、地元に貢献し続ける会社でなければ」と石橋元副社長
トヨタ自動車北海道の生産第1号アルミホイールのラインオフ=1992年10月
トヨタ自動車北海道の生産第1号アルミホイールのラインオフ=1992年10月

  「地元第一でないと仕事はできない」―。トヨタ自動車北海道の元副社長、石橋弘次さん(76)は力を込める。同社の立ち上げから深く携わり、道内ものづくり企業の最大手に成長するまでの歩みを共にした。苫小牧商工会議所副会頭(2007年から3期9年)などを通して地域にも貢献したが、「うちらは大企業として来たのではない。後から来て仲間に入れていただいた立場。謙虚さを忘れてはいけない」と訴える。

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   トヨタ自動車(愛知県)が苫小牧進出を発表した1990年。当時は自動車販売が右肩上がりで、生産拠点を愛知から初めて分散することを決めた。北海道と東北に部品工場を、九州に車両工場をそれぞれ新設。苫小牧は▽広大な土地▽人材確保の容易さ▽港湾に代表される物流―の主に3点が決め手となったが、石橋さんは「それらを支える環境、地元の熱意がよかった」と強調する。

   石橋さんは苫小牧市出身、苫小牧東高卒。76年に北大卒業後、トヨタ自動車に入社した。91年2月の北海道事業準備室開設、トヨタ北海道設立から参画したが、「当初は分工場の位置付けで、事務部門の私は出番がないと思っていた」と明かす。愛知から遠く離れた北海道での迅速な意思決定、地域との信頼構築や雇用の安定などを踏まえ、トヨタは100%出資の現地法人化を決断した。

   トヨタとしては国内初の独立採算制を採用し、親子会社の関係ながら「イコールパートナー」の気概。当時の豊田英二トヨタ自動車会長と工藤末志トヨタ自動車北海道社長が「対等な立場でやろう」と覚書を結んだといい、「工藤さんはトヨタでは部長級。大胆なことを言うなと思った」と冗談交じりに振り返る。「トヨタと一体だけど、違う会社をつくるという、当時の熱はすごかった」

   そんな熱気とは裏腹に、92年10月の操業開始に合わせるようにバブルが崩壊。道内6位の資本金100億円で設立し、2回の増資で275億円として今に続くが、「本当の予定は300億円。やはり会社としても引き締めないといけなかった」。社員寮の規模を縮小したり、導入する製造機械を減らしたりと、「トヨタには『空き地があります』と言い続けた」。

   決して順調な船出ではなかったが、92年10月にアルミホイール、93年6月に自動変速機(AT)、94年11月にトランスファーと、当時3大プロジェクトを立ち上げ、第5期(94年7月~95年3月)決算で初の単年度黒字を達成。トヨタ本社の指導や支援、生産の集積は大きいが、トヨタ北もTPS(トヨタ生産方式)を基にした確かな技術で応え、原価低減や品質改善に努めた。

   例えばアルミホイールは国内工場で唯一、溶解、鋳造、熱処理、機械加工、塗装の一貫ラインを構え、「(トヨタ北の)高圧鋳造にあらずんばアルミにあらず、と高い評価を受けた」と感慨深げ。その中で意識したのはやはり「地元」で、雇用や部品調達などに力を入れ、「苦しい時も雇い止めをせず、雇用を守ったのは自慢。急な増産、減産にも、地域の皆さまに支えていただいたから大きくなれた」とかみしめるように語った。

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