「100歳まで彫り続けたい」―。観音菩薩など木彫りの仏像がずらりと並ぶ苫小牧市青雲町の自宅兼工房で、約60年のキャリアを持つ仏師はそう話した。
太平洋戦争が始まった年の1941年、後に日本軍とソ連軍の戦場となった樺太・真岡(現サハリン・ホルムスク)で生まれた。実家は仏壇店だった。終戦を機に石川県珠洲市に引き揚げ、間もなくして一家で函館市へ移り住んだ。その後、苫小牧市で父が仏壇店を開業することになり、家族は60年に転居。函館の高校に通っていた自分はそのまま残り、下宿生活を送った。
授業料を自ら稼ぎ、苦学しながら道立函館工業高校定時制を卒業後、62年、東京の薬品会社に就職した。若手を大切にする―という人情味のある社風の会社で、「残業時に社長が食べさせてくれたカツ丼の味が、いまだ忘れられない」と当時を懐かしむ。
仏像専門の彫刻家・仏師の道に入ったのは、64年に東京の会社を退職し、札幌市の民芸品製作会社・原田木彫研究社で木彫り職人として働いたことがきっかけになった。技を磨くうち、仏像彫刻に関心を抱くようになった。実家が仏壇店を営んでいたことも背景にあった。
本格的に学びたいとの思いに駆られ、苫小牧に家族を残し、82年から本州で修業。大阪や京都の高名な仏師らを訪ね、指導を受けた。大阪市では水戸岡仏像彫刻研究所の水戸岡伯翠氏、京都市では日本仏像彫刻の第一人者・松久朋琳氏に師事し、「技を見て、盗む日々を送った」と言う。
断続的ながら6年ほど行った修業を終え、90年、白老町に工房を開いた。仏像彫刻だけでは食べていけず、当時、観光客から人気のあった木彫民芸品を製作し、ポロトコタンで売った。95年、苫小牧市に現在の工房を構え、寺や企業などから依頼を受けて、仏像や聖徳太子像など数百体以上を彫った。
60歳を過ぎ、「もう一度、勉強し直したい」と思い立った。2005年から約7年かけて、仏像彫刻の本場・京都でまた学んだ。体調不安もあって12年、苫小牧に戻り、今も工房で彫り続ける毎日だ。「やりたいことは、まだまだたくさんある、もう一度、京都に行きたい。人間、いつまでも努力することが大切」。80歳を超えても、さらなる高みを目指している。
年季の入った作業机の引き出しには、木に命を吹き込み、寿命を迎えた彫刻刀が何本も眠る。「簡単には捨てられなくてね」。単なる道具ではない、仏師として生きてきた証し―と思っている。
孫が彫刻に興味を持ち、遊びに来ては工房をのぞきに来るという。「後継者になってくれれば、とてもうれしい。長生きして教えられることを全て伝えたい」と顔をほころばせた。
(小笠原皓大)
松原順松(まつばら・じゅんまつ) 1941(昭和16)年7月17日、樺太(現サハリン)生まれ。趣味は種から育てる花や野菜の栽培。電子オルガン演奏も楽しみ、得意の曲は「荒城の月」や「ふるさと」など。苫小牧市青雲町在住。