元学校教員根城 健さん(74) 教育に情熱 学ぶ楽しさ伝える 「思い出 今でも大切」 フィリピンの日本人学校に赴任 マニラで3年間生活

  • ひと百人物語, 特集
  • 2022年7月16日
学校教員として尽力してきた根城さん
学校教員として尽力してきた根城さん
マニラ日本人学校3年目の根城さん(中央奥)と卒業生=1983年
マニラ日本人学校3年目の根城さん(中央奥)と卒業生=1983年
初赴任校・様似小学校の児童と遠足=1974年
初赴任校・様似小学校の児童と遠足=1974年
マニラ日本人学校の校門前で記念撮影=1981年
マニラ日本人学校の校門前で記念撮影=1981年

  学校教員として34年にわたり子どもたちに情熱を注いできた。校長も務め、教育に全力で当たった人生を振り返り、「生徒たちとの思い出を今でも大切にしている」と語る。

   1947年10月、様似村(現様似町)で生まれ、両親が営む旅館を生活の場に少年時代を過ごした。「とにかく遊ぶことが好きで、勉強はほとんどしなかった」と、毎日のように友達とソフトボールをした当時を回想する。様似中学校に進学後、バスケットボール部に入部。3年時は地区大会優勝に貢献するなど根っからのスポーツマンだった。

   様似高校ではバスケットボール部がなかったため、野球部に入部した。しかし、視力の弱さで高く飛んだボールが見えず、グローブでキャッチできないことがよくあった。監督から「向いてない」と指摘を受け、野球を辞めた。大好きなスポーツから離れたものの、勉強は苦手。自信を失いかけ、「どう生きていけばいいのか」と自問を繰り返した。道を切り開くため、大学進学を決意。受験勉強に励み、北海道教育大学釧路分校へ進んだ。3年時に小中学校で教育実習に当たった際、子どもたちが懐いてくれた。「教員はいいものだ」。そう実感し、教育に人生を懸ける思いを強めた。

   卒業後、郷里の様似で教員生活のスタートを切った。様似小の教壇に立ち、子どもたちと向き合いながら学びの楽しさを伝える日々を送った。ギター教室で出会った絢子さんと24歳のときに結婚。3人の子宝に恵まれ、幸せな家庭を築いた。

   教員としての幅をもっと広げたい―。そう考え、海外の日本人学校の採用試験にチャレンジし、30歳のときに合格した。だが、ロシア・モスクワへの赴任が決まって間もなく、急性肝炎を発症。医師の判断で泣く泣く辞退した。3年後、再び試験に挑んで合格。フィリピンのマニラ日本人学校に赴任し、家族と共に3年間マニラで暮らした。「現地の人々とよく旅行も楽しんだ。思い出がたくさんある国」と懐かしむ。

   マニラ日本人学校の生徒は「非常に優秀だった」と言い、東京大などに進学する教え子も数多くいた。大学の初論文を先生に見てほしい―と生徒から手紙が届いたり、うれしい知らせもたくさん受けたりした。

   帰国後、浦河町など日高管内の小学校3校の校長を務め、2006年3月に定年退職。11年に苫小牧市に自宅を構えた。趣味のそば打ちを深めようと、自宅の敷地に「楽笑庵」の看板を掲げた小屋を造り、年末には知人の依頼で300人分の年越しそばを打つ腕前となった。卓球やテニスなどで交友も広げ、沼ノ端スポンジテニス愛好会の会長として活動。苫小牧スポンジテニス協会の副会長も務め、仲間と共に第二の人生も全力で歩み続けている。 (石川優介)

   根城健(ねしろ・たけし) 1947(昭和22)年10月25日、様似町生まれ。教師を退いた後、苫小牧でスポンジテニスや社交ダンス、ウクレレ、そば打ちなど多彩な趣味を楽しみながら、地域との交流を深めている。苫小牧市ウトナイ南在住。

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