苫小牧、帯広に追い付き追い越せ―。並々ならぬ対抗心が釧路を強くさせてきた。先陣を切ったのは1960年開校の私立釧路第一高。当時、苫小牧工業高や帯広三条高などが優勝争いを繰り広げていた全国高校総体スピードスケートの男子総合で、65~70年に6連覇。女子も71年に総合優勝した。
「絶対に負けない練習をしてきた自負があった」と釧路第一高OBで、69年高校総体男子5000メートル優勝の釧路スケート連盟狩野眞副会長(71)。学校近くのクロスカントリーコース走が朝の日課。30キロ走も恒例メニューの一つだった。
冬季の練習場所は釧路管内標茶町にある塘路(とうろ)湖。厚さ70センチ近くになる氷に覆われた冬に、市内各校が自作した1周400メートルのコースが出現。冬休みは「朝一番の蒸気機関車に乗って、日が暮れるまで滑り込んだ」と懐かしむ。
68年には釧路市初のスポーツ少年団「釧路スケートスポーツ少年団」が結成された。釧路スケート連盟の50周年の歩みによると市内の小中学校11校で結成され、計212人が所属。最盛期の81年度には33の小中学校で計866人もの団員を抱えた。
40年以上にわたって主に中学年代を指導してきた連盟の平田政之理事長(69)は「各学校にスケート競技に熱心な教員がいたことも大きかった」という。元王子製紙でアルベールビル(92年)冬季五輪などに出場した宮部保範らが教え子。71年の人工製氷設備を備えた柳町スピードスケート場完成で、地域の競技はさらに活気を帯びた。
潮目が大きく変わったのは2009年だった。帯広市に国内2番目の屋内スピードスケート場「明治北海道十勝オーバル」が誕生。五輪をはじめ屋内施設での大会開催が主流となり、選手たちはより良い競技環境を求めて帯広に流出するようになった。5年後の2014年度、釧路連盟における高校生以下の競技登録者は98人にまで減った。
連盟は3年ほど前から柳町スピードスケート場の屋内化構想に着手。既存のリンクにアーチ状の全面屋根を架け、センターコート内では他競技の練習やボッチャ、ブラインドサッカーなどパラスポーツ利用もできる多用途施設を市にアピールしてきた。
ただ、行政からの好回答はいまだになく、22年度の高校生以下の競技登録者は22人にまで落ち込んだ。
市内唯一の中学年代の少年団、釧路中学スケート少年団には現在4人が所属。指導者の一人で釧路育ちの山手新太郎さん(41)=釧路北中教諭=は実業団ダイチ(富山市)時代に田畑真紀(駒大苫小牧高出)、穂積雅子(同)と共に一線級で活躍してきた。
「子どもの時は柳町のリンクがいつも満杯で、スピードを出して滑ることを禁止されるくらいだった。本当に寂しい」とふるさとの現状に心を痛める。厳しい練習の中にも「どこかに楽しさや達成感を味わえる」工夫を凝らし、数少ない教え子が継続してスピードスケートに親しんでもらえるよう尽力している。
苫小牧市と双璧を成す「氷都」釧路市。アイスホッケーは十條製紙、日本製紙が競技振興を支え、スピードスケートでは、1984年サラエボ冬季五輪男子500メートル銀メダリストの北澤欣浩(59)ら名選手を数多く輩出してきた。道内のスケート競技を長くけん引してきたもう一つの氷都は、看板競技者の減少で岐路に立たされている。その現状を探った。2回掲載。