色とりどりの花が庭を彩る自宅のキッチンに、すべて手作りの食器が並ぶ。家の隣に陶芸アトリエ「夢草工房」を構え、愛犬の春ちゃんに見守られながら創作を続けている。夫の死で悲嘆に暮れた日々を救ってくれたのは、陶芸と仲間の励ましだった。
1941年、虻田町(現洞爺湖町)で6人きょうだいの長女として生まれた。中学卒業後は家計を助けるため懸命に働いた。
室蘭市で叔父が営む喫茶店を手伝っていた60年ごろ、後に夫となる健治さん(故人)と出会った。交際を経て、健治さんの親へ結婚のあいさつに出向いたものの、猛反対を受けた。「どうしても一緒になりたい」と、東京へ駆け落ちした。1年半後、北海道へ戻り、2人の子どもを授かって幸せな家庭を築いた。
73年、夫の転勤で室蘭市から苫小牧市へ転居した。自身も市内の企業に就職。職場の後輩から「母さん」と慕われた。
「昔から興味があった」という陶芸を始めたのは52歳の時。「会社の定年を迎えるまでに家の食器を全部、自分で作りたい」と夢を抱き、市内の陶芸サークル「どろんこ陶友会」に参加した。陶芸の奥深い魅力に心を奪われるまでに、そう時間はかからなかった。
遠方で開かれる陶芸展に足を運ぶため、55歳で普通自動車免許も取得した。「一刻も早く陶芸に打ち込みたい」と家族に宣言し、59歳で会社を辞めた。退職金を使い、自宅に窯やろくろを備えたアトリエを造った。
陶芸に没頭できる環境が整った2002年、健治さんが倒れた。救急車で向かった病院で大腸がんと診断された。医者からは「1年も持たない」と告げられた。元気だった夫の体をがんが静かにむしばんでいた。
懸命な治療の末、健治さんは03年、62歳でこの世を去った。「すごくショックで家からも出られず、陶芸にも身が入らない日々だった」と当時を振り返る。
深い悲しみに暮れていた中で、励ましてくれたのは陶芸仲間だった。ひっきりなしに家を訪ねて来ては「いつまでもくよくよしていたら、あんたらしくない」と、前を向くよう背中を押してくれた。
健治さんの死から1年後の04年10月、仲間の後押しで初の展示即売会「窯元展」を自宅で開いた。家の2階に作品を並べ、1階を喫茶スペースにすると、口コミでどんどん人がやって来た。「自分の作品を販売するなんて夢にも思っていなかった。本当に幸せな時間だった」と回想する。
窯元展は19年で終え、今は10月のイベント出展に向けて食器類の制作に追われる毎日だ。「どうせ生きるなら、少しでも楽しく過ごしたい」と語り、「パパごめんね、私、幸せにやってるよ」と最愛の夫の遺影にほほ笑みかけた。
(倉下鈴夏)
檜山 三代子(ひやま・みよこ) 1941(昭和16)年10月、虻田町(現洞爺湖町)生まれ。大学芸術学部を今春卒業した孫太聞さん(22)のこれからが何よりの楽しみ。太聞さんの卒業制作の際、材料として愛用の着物帯を提供したという。苫小牧市ウトナイ北在住。