1998(平成10)年、平取町から苫小牧市桜木町へ移住して24年たつ。海や森など自然に恵まれ、人口も多い街だけど、観光の目玉になるような場所が少ないと感じる。スポーツの関連施設は充実しているものの、子どもたちが楽しめる遊園地のような施設があれば、「もっと人が集まる街になるのではないか」と苫小牧への思いを語る。
子どもの頃、戦争期を過ごした浦河町で、今も忘れられない出来事を体験した。砂浜でジャガイモやウニを焼いたり、海で泳いだりして遊んでいた際、水面から巨大な潜水艦が浮かび上がってきた。あっけに取られながら、友人と様子を眺めていたところ、「ドン」という大砲の音が響いた。米軍の潜水艦と気付いてすぐさま逃げたが、小学校の校舎が破壊され、当時の校長が犠牲になった。「(犠牲になったのは)自分だったかもしれない。穴だらけの校舎を目に恐怖を感じた」と戦争の恐ろしさを回想する。
空襲警報が鳴り響くと、防空壕(ごう)に逃げ込んだ。戦闘機の機銃掃射の音や、立ち上がる砂ぼこりの光景は鮮明に覚えている。「戦争の怖さを語り継ぐ人が少なくなってきた」と危惧する中で起きたロシア軍のウクライナ侵攻。「子どもまでもが命を奪われているというニュースを見るたび、心が痛む。戦争は絶対に許してはいけない」と語気を強めた。
高校の卒業間近、叔父から「先生をやってみないか」と声が掛けられ、教員を目指した。北海道学芸大学(現北海道教育大)釧路校に入学。勉学に励む一方、スポーツが得意だったため、ラグビー部や陸上部などの助っ人にも駆り出された。卒業後、日高管内の小学校に配属された。「児童に寄り添った教育」をモットーに、管理職となってからも教壇に立ち続け、子どもたちから親しまれた。卒業式で児童と一緒にピンクレディーの曲「UFO」を踊ったこともある。信条に反することなく、38年間の教育人生を全うした。
教員時代の思い出は宝物だ。つらいことがあっても、仕事終わりに先輩の先生たちと職員室で夜遅くまで教育談議をした。「今の時代は仕事が終わるとすぐ帰宅。先輩と会話する機会が少ないため、悩みが尽きず、行き詰まってしまう先生が多いのではないか」と心配する。「時代が変わり、やりにくいことも多いと思うが、強い気持ちで前へ進んでほしい」と後輩教員らにエールを送る。
桜木町で暮らし始めた頃、町内会の役に立ちたいと役員に立候補した。防災・防犯の担当者や福祉部長などを務め、現在は住民でつくる桜木同心クラブの会長として活躍している。「コロナ禍が続いているけど、きょうも楽しかったね―と言い合える会にしていきたい」。仲間との活動は生きがいという。
(小笠原皓大)
栗田雄介(くりた・ゆうすけ) 1932(昭和7)年11月、浦河町生まれ。趣味は油絵を描くこと。苫小牧の絵画サークル「のばら」に所属し、制作に励む。月に2度、パークゴルフも楽しんでいる。苫小牧市桜木町在住。