少年野球新生台イーグルス相談役 木戸口 雅樹さん(85) 教え子の成長生きがい 指導に熱 80歳までバット握る 練習に汗流した日々掛け替えのない思い出

  • ひと百人物語, 特集
  • 2022年4月16日
新生台イーグルスで総監督を務めた木戸口さん(右端)=2010年、苫小牧市少年野球場
新生台イーグルスで総監督を務めた木戸口さん(右端)=2010年、苫小牧市少年野球場
還暦野球の大会に出場し、チーム名のプラカードを持つ木戸口さん=1985年、帯広市
還暦野球の大会に出場し、チーム名のプラカードを持つ木戸口さん=1985年、帯広市
少年野球の指導者として200人以上を教えてきた木戸口さん
少年野球の指導者として200人以上を教えてきた木戸口さん
高齢者施設の入所者とマージャンを楽しむ(右から2人目が木戸口さん)=2022年
高齢者施設の入所者とマージャンを楽しむ(右から2人目が木戸口さん)=2022年

  80歳まで野球のノック用バットを握った。少年野球チームで監督を務め、子どもたちの成長を感じることは、生きがいでもあった。卒団生として送り出した教え子は200人以上。子どもと練習に汗を流した日々は掛け替えのない思い出だ。

   札幌市で生まれ育ち、小学1年時に苫小牧市に移り住んだ。苫小牧東高校を卒業後、建設業の岩倉組(当時)に入社し、道内外の転勤を経験した。1987(昭和62)年に退社した後、苫小牧体育協会(当時)の職員として白鳥王子アイスアリーナなどで勤務したほか、市内のスポーツ用品店で野球用品の販売にも携わった。

   野球は小学4年のときに始めた。高校入学と同時に野球から一度離れたが、就職後は会社の野球部に所属して三塁手としてプレー。仕事と同じくらい野球に熱中する日々を送った。「仕事は忙しかったけど、野球をやってリフレッシュできた」と振り返る。

   60歳以上の選手が出場する還暦野球チームでも現役を続けた。当時の苫小牧では初のチームだった「プラバーズ苫小牧」の発足に関わり、二塁手の選手として活躍。大会出場のため、道内各地を巡り、89(平成元)年の全道大会では優勝に貢献した。野球を通じた人との出会いや交流も楽しみの一つだった。「野球ができる仲間に恵まれた。勝っても負けても本当に楽しかった」と回想する。

   少年野球チームで指導にも当たった。85(昭和60)年に三光ドラゴンズ(当時)の監督に就任。97(平成9)年からは、新生台イーグルスの総監督を務め、子どもたちに熱心に向き合った。キャッチボールなどの基本から丁寧な指導を心掛けた。「基礎から教え込んで上手になっていく姿を見ると感激する」と野球指導者の魅力を語る。

   教え子の中には、甲子園出場を果たした選手もいた。試合を見るため、甲子園球場にも足を運んだ。「はらはらしながら観戦したね」と、大舞台に立つ教え子の勇姿を思い返す。

   少子化で市内のチーム数も減少傾向をたどっている。「野球に打ち込む子が少なくなることは寂しい」と言い、「指導者不足も深刻。野球経験がある人は、指導にも関心を持ってほしい」と願う。

   2018年、新生台イーグルスの練習後に脳梗塞で倒れた。言語障害など後遺症が出たものの、懸命なリハビリで克服した。今は市内の高齢者施設に入所し、趣味のマージャンや将棋を仲間と楽しみながら穏やかな日々を過ごしている。

   体調のこともあって、なかなかできなかった少年野球の観戦に、今年こそは行きたいと思っている。「3年ぶりに子どもたちの全力プレーを見たい」と声を弾ませた。 (石井翔太)

   木戸口雅樹(きどぐち・まさき) 1936(昭和11)年8月、札幌市生まれ。北海道少年軟式野球連盟胆振支部事務次長、苫小牧市スポーツ少年団野球部会副会長を歴任。人生の多くを野球と関わった。苫小牧市元中野町の「ケアハウス陽だまりの樹」に居住。

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