(2)高校リンク造成の苦労―田中正靖さん~親子でつないだ思い出

  • 消えゆく氷都の光景~スケート授業のいま~, 特集
  • 2022年3月10日
苫西高時代のスケート授業の様子(田中さん提供)=2004年=
苫西高時代のスケート授業の様子(田中さん提供)=2004年=
グラウンドのリンクでスケート授業に励む苫南高の生徒(同高20年史より)=1979年=
グラウンドのリンクでスケート授業に励む苫南高の生徒(同高20年史より)=1979年=

  苫小牧南、苫小牧西の両高校で体育教員としてスケート授業、リンク造成に携わった田中正靖さん(64)は「社会人になって、市外や道外に移り住んだとき『苫小牧出身なのにスケートも滑れないの』と言われてほしくない」との思いが強くあった。

   苫小牧東高校の元教員で、アイスホッケー部を35年間率い10度の全国高校総体優勝に導いた父・正さんの影響で3歳からスケート靴を履いた。

   小学生時代は放課後に友人たちと学校リンクでアイスホッケーに興じるのが日課。「気付いたらとっくに日が暮れていて、水まきにやって来た先生に『いい加減にしなさい』とよく言われた」。自宅の庭にスケートリンクを造成。苫東高―早稲田大ではアイスホッケー部に所属するなど、氷都苫小牧のど真ん中で育った。

   初任地となった1981年の苫南高から学校リンクを造成し、スケート授業を展開した。木製のフェンスで囲われたアイスホッケー用リンクと、体育館の日陰ができやすい建物北側にも氷を張った。「何でアイスホッケー部じゃないのかと思うような男子生徒はたくさんいた。女子もスケートに慣れている子が大半だった」と振り返る。

   1994年に苫西高へ赴任した際は、縦60メートル、横30メートルのアイスホッケー用のリンクに2クラス約80人が授業参加するのに、場所と人数を3等分し何とかやりくりした。リンク維持のため、体育授業は気温の低い午前中に行う「冬時間割」が採用されていた。

   南高時代とは違い「初めてスケートを滑るような生徒が年々多くなっていった」が、さすが氷都育ち。上達速度は目を見張るもので、最後は「男子も女子もアイスホッケー競技で遊べるくらいまでになっていた。毎年みんな楽しみにしていた授業の一つだった」と懐かしむ。

   最後の赴任地となった苫東高ではすでにスケート授業が途絶えていた。復活を模索したが、体育教科の授業時数減少や保護者に万単位の額のスケート購入を強いることなどから断念。ただ、生徒からスケート授業を熱望する声は多く「全員がスケートを用意できる」のを前提に年数回、アイスホッケー部が部活動で使用していた学校リンクで限定的なスケート授業をしたこともあった。

   自身も赴任した苫西高が今年度でスケート授業を終了し、市内の高校から冬の風物詩は消える。教員や学校、保護者にかかる負担が大きい授業であることは誰よりも身に染みて分かっている。それでも「子どもたちがスケートに親しめる環境を何とか維持してほしい」と願ってやまない。

  (北畠授)

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