青木造園土木青木生花店専務取締役 青木 節子さん  (79)花の世界で奮闘 嫁ぎ先の家業 切り盛りし60年超 団体活動や趣味も精力的に  「いろんな人と知り合うのが好き」

  • ひと百人物語, 特集
  • 2022年2月12日
「生花店に嫁ぐとは思わなかった」と当時を思い返す青木さん
「生花店に嫁ぐとは思わなかった」と当時を思い返す青木さん
高校1年生の時に市内の写真館で撮影=1958年ごろ
高校1年生の時に市内の写真館で撮影=1958年ごろ
札幌の花卉(かき)市場で時計台をイメージしたヘッドドレスをかぶる青木さん=1972年ごろ
札幌の花卉(かき)市場で時計台をイメージしたヘッドドレスをかぶる青木さん=1972年ごろ
青木さん(右)の還暦を市内飲食店で祝う=2002年
青木さん(右)の還暦を市内飲食店で祝う=2002年
グランドホテルニュー王子で開かれた花菖蒲会役員の集まり(前列右から4人目が青木さん)=2017年
グランドホテルニュー王子で開かれた花菖蒲会役員の集まり(前列右から4人目が青木さん)=2017年

  「18歳で生花店に嫁に来て、現在も現役。気付いたら60年以上花の世界にいる」としみじみ語るのは青木節子さん(79)。国道235号沿いに立地する青木造園土木青木生花店(苫小牧市寿町)の専務取締役として経理を担当するほか、国際ソロプチミスト苫小牧副会長、苫小牧商工会議所女性会副会長、花菖蒲(しょうぶ)会会長など、さまざまな団体で活動している。「いろんな人と知り合うのが好き」と笑顔を見せる。

   6人きょうだいの末っ子として、苫小牧市中部3区(現王子町)に生まれた。家の裏にはスケートリンクがあり、トイレの窓からその日のリンクの滑走状況を示す紅白の旗が見えた。「家からスケート靴を履いて滑りに行く、活発な女の子だった」と幼少期を語る。

   市内の小中学校を卒業後、苫小牧技芸高等学校(当時)へ進学。その後、生花店と造園業を営む1歳上の孝吉さん(故人)と結婚した。「たまたま付き合っていた人が生花店の息子だった。花の知識はなかった」と振り返る。1960年、長男俊憲さん(61)を授かり、その後2女を出産。「結婚後約10年間は子育てに奮闘した」という。

   30歳ごろから本格的に生花の仕事へ。池坊や小原流の生け花を学びながら、青木さんが青木生花店を、孝吉さんが青木造園土木を中心に家業を担った。毎日午前8時には末広町の市場へ出向き、2時間ほど競りに参加する。仕入れた後は、それぞれの花の水揚げ。昔は多くの花を葬儀会場に運び、登別市や日高管内まで配達していたという。

   今のようなアレンジよりも花束が主流だった。「当時はまだ輪ゴムがなくて、わらで縛っていた。きれいな花とは対照的に、手は荒れるし、仕事は厳しかった」と明かす。その頃、店は午後8時閉店で年中無休。仕事終わりに出歩く時間も取れず、サークル活動もなかなかできなかった。

   青木さんが自由に時間を使えるようになったのは、60歳を過ぎてからだ。2009年に孝吉さんが亡くなり、俊憲さんが青木造園土木の社長に就任。青木生花店についても俊憲さんの妻・真由美さん(59)が切り盛りする機会が増えた。

   普段出会えない人と知り合いたいと思った青木さんは、09年に国際ソロプチミスト苫小牧、12年に商工会議所―と積極的に活動に携わり、いずれも10年以上続けている。大町寿町内会の役員も務め、10年前にはマージャンサークルも立ち上げた。新型コロナウイルスで活動ができない状況に「残念。落ち着いたらまた皆で集まりたい」と話す。

   47歳で胃の一部を切除、68歳で十二指腸を手術したが「退院したら、すぐ元気になる。苦労を苦労と思わないタイプ」と明かし、「今後も健康を第一に仕事、組織活動と頑張っていきたい」と笑う。(樋口葵)

  青木 節子(あおき・せつこ) 1942(昭和17)年3月、苫小牧市生まれ。趣味はマージャンや社交ダンスで、ダンスは仕事の合間を縫いながら30年以上習った。最近の楽しみは風呂上がりの一杯のビール。現在、孫6人、ひ孫5人に恵まれている。苫小牧市寿町在住。

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