私の両親は、テレビで病院や介護の話題が出るたびにこんな会話をしています。
「最近、体が衰えてきた感じがあるのよ。痛そうだしつらそうだし、病気になったら手術とかしないでそのまま死にたいわ」
「確かになあ。お金もかかるし…」
私と姉には「もしも私たちが病気になったり認知症になったりしても、手術とか介護とかしなくていいからね。老人ホームに入れてくれたら十分よー」などと言います。そのたびに私と姉は、うまい返しが見つからず、苦笑いしながら黙っています。
先日祖母が手術をしました。その手術とは小腸に空いた穴をふさぐという、とても難しいものでした。母の話によると、苦しさや辛さを伴う手術になるため、完治は望めなくても薬を飲み続けて穏やかに治療するという選択肢もあったそうです。しかし祖母は、迷わず手術を受け完治させることを選びました。普段の父母の会話で生きることに執着しない考え方を聞かされていた私は、大きな戸惑いを感じました。もともと万事にアクティブな祖母とゆっくり過ごすことが好きな私では、だいぶ性格が違います。今回の件では特に、私はなぜ祖母が苦しい思いをしてまで生きていきたいかがわからなかったのです。
今の世の中には、「死ぬのが怖い」という人は多くいますが、「どれほど苦しくても生きていたい」という人はあまりいないように思います。もしそんな人ばかりだったら自殺する人はもっと少なくなるはずです。しかし、日本ではひと月に1000人を超える人が自殺しています。生きたいと思う心は人それぞれです。生きたいと思うことが難しい境遇もあるかもしれません。生死に執着しない人もいれば、生きることが嫌になってしまう人もいて、限界まで生きていたいと願う人もいます。それはやはり人それぞれの考え方であり、どれも周りの人が否定できるものではないと思います。
手術が終わり、祖母から電話がかかってきました。その声は手術前よりも何倍も元気で、生命力にあふれていました。声を聞かせてくれただけでなく、その言葉には希望が感じられました。
「老人ホームのお友達と桜を見に行きたいのよ」
「あなたたちに海外に連れて行ってもらって一緒に旅したいわ」
「あなたたちが大きくなっていくのをこの目で見届けるの」
「だから、まだまだ死ねないわ。100歳まで生きなきゃね」
祖母は輝いていました。夢を持ち生きたいと願う祖母は何歳になっても輝いています。生きたいと思える何かを見つけることができれば、人は強くなれるのかもしれません。
生きたいと思える何か。それは希望であり夢です。私は祖母を見て、生きていく意志につながる夢が欲しいと思いました。だから、そうした夢を見つけるまでは私も生きていたいと思います。あの時の祖母の声の強さに心からそう思えたのです。
私は今まで、死にたいと願う人は、生きていたいと強く願う人に命をあげることができればいいのに、と思っていました。けれどそうではなくて、生きていたいと願う人は、その生きていたいという気持ちを死にたいと願う人々と分かち合うことができればいい。そう思うようになりました。
病気で苦しむ人の中には、延命措置をしないと決める人もいます。自分で限界まで考え抜いて決意した人に、否定の言葉をぶつけるべきではないと思います。だからこそ、生きたいと強く思えるような人生を送ること。これが私が祖母から学んだことです。そして、この気持ちを誰かにつなぐことができる人になる、これが私の大切な夢です。