今年10月、白老町の子育て支援団体に依頼されてスケッチ教室の講師を初めて務めた。受講者は地元の児童ら。自由な発想と感性で画用紙に色鉛筆を走らせる子どもたちを優しく見守った。小学校で美術を教えたい―。80歳になって昔の夢がかなった気持ちになり、うれしさが胸にこみ上げた。
白老で明治から続いた老舗の食料品店で、5人きょうだいの次男として生まれた。絵を描くのが大好きだった子どもの頃、ある芸術家との出会いが今も心に残っている。戦中に栃木県から白老へ疎開し、戦後にかけた3年間、店の近くで暮らした版画家川上澄生(1895~1972年)。世界的な版画家棟方志功(1903~75年)に多大な影響を与えた川上氏の家に時折遊びに出掛けては、芸術へのあこがれを強くした。
美術への志を胸に秘めた中学3年生の時だった。教師の紹介で、苫小牧市の美術界をけん引した画家遠藤ミマン(1913~2004年)のアトリエを訪ねた。生涯にわたる遠藤氏との交流がそこから始まった。苫小牧東高校に入学し、早々に美術部に入った。部活動に励みながら遠藤氏に教えを仰ぎ、「ミマン先生が指導するサークルに潜り込み、絵の技を学んだこともあった」と振り返る。
美術教師になる決意を固め、大学進学の準備を進めていた。その矢先に父親造さんが42歳で他界。大黒柱を失った家業を手伝うため、「教壇に立つ夢を諦めざるを得なかった」。心を切り替え、1960年に高校を卒業後、母つゑさん(2008年に92歳で死去)と懸命に働いた。
妹も店の経営に携わるようになった中、「自分は写真で身を立てよう」と68年にカメラ店を創業。絵画と同様、美のセンスが求められる写真の世界に興味を抱いたからだった。身に付けたスタジオ撮影の技術は評判を呼んだ。毎年欠かさず家族写真の撮影に訪れる家庭もあるなど、地域に愛される店となった。
仕事に追われ、絵画制作から遠ざかっていたものの、50歳になったとき、「このままでは死ねない」と再び絵筆を取った。水彩の静物画を描きためたスケッチブックを手に遠藤氏のアトリエを訪ねた際、「また描き始めたのか、頑張れよ」と喜んでくれた。恩師に励まされ、胸が熱くなった。
それから、せきを切ったように絵を描いた。同時に親交のある芸術家の写真も撮り続けた。15年には苫小牧のギャラリーで、故人となった遠藤氏や鹿毛正三氏ら地元画家12人の素顔を収めた写真の展示会を開き、生前をしのんだ。
一度は夢を捨てた人生だったが、悔いはない。これまでの30年に描いた絵は9430枚に及び、創作の自信も深めた。カメラ店の階段に飾った作品に目をやり「80歳なんてまだまだ。1万枚を目標に描き続けますよ」とほほ笑んだ。
(下川原毅)
村上 和義(むらかみ・かずよし) 1941(昭和16)年5月、白老町生まれ。白老商業振興会理事長を務める息子の英明さん(52)と共に「カメラ・撮影のむらかみ」を経営。「村上かん」の名で絵を制作している。白老町東町在住。