支笏湖温泉街の風景にとけ込み、ひときわ印象的な橋がある。山線鉄橋と言われる赤い橋だ。
明治の終わりごろ、王子製紙が苫小牧に工場を建設するに当たり、電力確保のための発電所建設が不可欠だった。その建設に必要な資機材の運搬や稼働後に紙の原料となる木材の運搬などをするため、苫小牧と発電所や支笏湖を結ぶ鉄道が敷かれた。山線と呼ばれる王子軽便鉄道だ。支笏湖にある山線鉄橋はその一部である。もともとは木製の橋だったが、輸送量の増大などに対応するため、1923(大正12)年ごろに北海道官設鉄道上川線の空知川に架けられていた橋を移設する形で架け替えられ、今日に至っている。
歴史を振り返ってみると、王子製紙が苫小牧に工場の建設を決めたのは、当時のトップである専務取締役の鈴木梅四郎だ。千歳川のナッソウの滝を見つけ、豊かな水量が確保できると判断したことなどが決め手となったそうだが、この人の決断なくしては苫小牧工場の建設はなかった。さらに歴史をさかのぼっていくと、ある人物に行き当たる。王子製紙の前身である抄紙会社を東京都北区王子に設立したのは、あの渋沢栄一だ。
あらゆる事業を盛んにするためには知識を高めることが大事で、そのためには大量の印刷物に適した洋紙が必要だと説き、製紙会社を設立したとされる。渋沢は500近くの会社設立に関わり、日本で最初の銀行である第一国立銀行(国立といっても民間資本)の設立などで有名だが、銀行設立とほぼ同じくして製紙会社を設立している。日本の近代化に紙の製造が欠かせないと考えた渋沢の製紙業への思いが伝わってくる。
このように渋沢栄一が王子製紙を設立し、鈴木梅四郎が苫小牧工場の建設を決断、そして山線が敷設されるという歴史があった。
山線は時代の流れとともに、51(昭和26)年にその役割を終えたが、赤い鉄橋は今も支笏湖のシンボルとして存在感を示している。現在、山線鉄橋は塗装工事が行われており、その雄姿を見ることはできないが、その作業も間もなく終了する。
冬の静かな支笏湖で山線の歴史を振り返り、赤い橋を見ながら散歩するのもいいものです。
(自然公園財団支笏湖支部所長 木林正彦)