中学校卒業後、はんこ店で修業を積み、親方に「一生食いっぱぐれないぞ」と言われた。父親が経営する店で勤務後、苫小牧市内で独立。高度経済成長期は大勢の人が印鑑を買い求めた。時代の変化で脱はんこの流れが加速する中、一級印章彫刻技能士として、磨いた技術を生かしている。
1938年、朝鮮の大邱市で生まれた。45年に中国・北京の国民学校に入学したが、7月に朝鮮の光州市へ転校し、8月15日の終戦を迎えた。「負けたとき、艦載機が空いっぱいに飛んでいた記憶がある」という。「生まれたときから日本の領土だったが、焼き討ちされた家もあった。朝鮮の人から『日本人帰れ』と言われた」と振り返る。
同年10月、家族で列車に乗り込み、大邱市や釜山市を経由し、引き揚げ船で博多港に到着。母親の実家がある富山県上原村(現入善町)に向かい、48年に入善小学校へ転校した。父親がさまざまな商売を手掛けていたため食べ物はあったが、金銭的な余裕はなかった。友達にゴムで弾を飛ばすパチンコの作り方を教えてもらい、よく遊んだ。
はんこ職人になったきっかけは、印章店を経営していた父親から「はんこ屋に行け」と言われたこと。54年から同県高岡市のはんこ店で修業を積んだ後、入善町へ戻り、浜西はんこ店で働き始めた。当時はほとんど手彫りで、ゴム印が導入された時期だった。向上心を忘れず、定時制高校で勉強しながら、製塩会社で働いた経験もある。
父親が別の仕事で日高町にいた62年、「これからは北海道が発展する」と考え、同町に移り住んだ。はんこ店を開業し、63年には富川町(現日高町)へ移転。地域でボランティアをしようと同町の消防団に入団し、消火作業にも当たった。
苫小牧市に来たのは70年。旭町で独立し、新しい浜西はんこ店を開店した。高度経済成長期で、企業にもまちにも勢いがあった。多い時は、認め印が1日5~6本売れた。会社の設立も相次ぎ、実印の注文も多く入った。
潮目が変わったのは25年前、パソコンが普及し、ゴム印を簡単に作成できるようになった頃からだ。機械化によりレーザー作業で印鑑が作れるようになり、印章店が減少。北海道印章業組合連合会の理事や参与も歴任したが、組合員の減少が続いているという。
はんこは「自分を保証する唯一の物」と語る。「これからはマイナンバーがはんこの代わりになるだろうが、印章は好きな文字や絵を彫る遊印や落款印として残っていくのでは」。脱はんこの流れが進んでも可能な限り店舗の経営を続け、はんこの魅力を伝えていくつもりだ。(室谷実)
濱西 世志治(はまにし・よしはる) 1938(昭和13)年9月、朝鮮の大邱市で生まれる。終戦後、富山県に引き揚げ、62(同37)年に北海道に移住。70年に苫小牧市で浜西はんこ店を開業した。一級印章彫刻技能士や職業訓練指導員の免許を持つ。苫小牧市旭町在住。