全国の都市・企業の熱気と誇りがぶつかり合う都市対抗野球大会。1974年の第45回大会、大昭和製紙北海道が黒獅子旗(優勝)を白老町に持ち帰った。初めて津軽海峡を渡った黒獅子旗に、まちは歓喜に包まれた。「まちの人が大勢応援してくれましてね。今でも感謝の気持ちでいっぱいです」。三塁手として体感した興奮は今も心を熱くする。
当時の都市対抗は、高度経済成長の余波で元気だった企業と選手の気迫に加え、華やかな応援合戦も魅力だった。まだドーム球場がなく、北海道代表は後楽園球場の暑さとの戦いでもあった。暑さ対策でサウナに通った選手もいたという。焼けるように熱いグラウンドの土の感触も思い出だ。
大昭和北海道野球部の誕生は62年。北の暴れん坊は厳しい練習に耐え、輝かしい実績を積み重ねた。会社の業績悪化による81年の休部も1年で復活、選手と地域の熱意がチームの躍進を支え続けた。
黒獅子旗を獲得した74年の都市対抗北海道予選は苦戦の連続だった。新日鉄室蘭、拓銀を退けて第1代表を死守。本戦は電電東海、2回戦の熊谷組、準々決勝の電電関東に勝って4強。黒獅子旗獲得の天王山となった準決勝の新日鉄堺戦は松下電器からの補強選手で、この年のドラフトでプロ(阪急)入りした豪腕・山口高志と延長の死闘になった。
0―0の同点で迎えた延長十一回、語り草になっているノーサインの三盗を成功させた。「山口の真っすぐは速かったね。全然打てなかった。三塁まで行けば何とかなる」。経験と走塁技術を駆使した大勝負だった。結果、1死満塁からの犠打で、自らサヨナラのホームを踏んだ。ナインが優勝を確信したビッグゲームになった。
ナイターとなった決勝の新日鉄八幡戦も延長の末に4―0で完封勝ち。本戦出場5度目での頂点だった。バックスクリーンの電光掲示板に「優勝 白老町」の文字がくっきり浮かび上がった。ナイターのカクテル光線がまぶしかった。
チームは続く75年、監督として臨んだ89年に白獅子旗(準優勝)を獲得、大昭和黄金期の主役の一人として歴史に名を刻んだ。
優しく温和な顔立ちだが「人一倍負けず嫌いのファイトマン。野球職人だね」と後輩の我喜屋優さん(71)=現沖縄・興南高野球部監督=。
今でも苫小牧ケーブルテレビの高校野球室蘭支部予選の解説を務め、野球に寄り添いながら白老町で過ごしている。「高校生を見ていると懐かしいね…。どんな練習をやっているのかな」と興味は尽きない。「練習はうそを言わない、練習に勝るものはない」とエールを送った。
(高橋昭博)
斉藤 勲(さいとう・いさお) 1945年4月、山口県生まれ。柳井商工高を卒業後、64年に大昭和製紙富士入社、66年大昭和製紙北海道に移籍。71年から主将を務め、75年コーチ兼内野手、77年助監督兼内野手。道日大高野球部監督などを経て87年から90年まで大昭和製紙北海道監督。白老町萩野在住。