アマチュア写真家 鈴木 穹さん(85) カメラ通じ重ねた交流 「また、笑顔撮りたい」コロナ禍イベントなく 写真は無償でプレゼント

  • ひと百人物語, 特集
  • 2021年8月21日
「コロナが早く収束してほしい」と願う鈴木さん
「コロナが早く収束してほしい」と願う鈴木さん
国民学校の1年生の頃の写真。男子だけのクラス編成だった(最後列左から2人目の女性の右下、帽子をかぶっているのが鈴木さん)=1940年代前半
国民学校の1年生の頃の写真。男子だけのクラス編成だった(最後列左から2人目の女性の右下、帽子をかぶっているのが鈴木さん)=1940年代前半
戦後、中学校の研修旅行で訪れた日光東照宮(最後列右から5人目が鈴木さん)=1940年代後半
戦後、中学校の研修旅行で訪れた日光東照宮(最後列右から5人目が鈴木さん)=1940年代後半

  とまこまい港まつり、とまこまいスケートまつりなど、苫小牧市内で開かれる大きなイベントにはデジタルカメラを持ち、欠かさず足を運んできた。会場で出会った人とあいさつを交わし、シャッターを切る。希望も聞いて、写真をプリントし、プレゼントもする。しかし、昨年来、新型コロナウイルスの流行でイベントが軒並み中止になり、外を出歩く機会が激減した。「感染対策で仕方がないかもしれないが、人と会って話すのが駄目というのが、つらい」と嘆く。

   東京生まれ、神奈川県横須賀市育ちで、カメラとの出合いは小学生の頃だ。海軍で海図の作製に携わっていた父のカメラを借り、遊んでいた。「物はいずれは壊れるという考え方の父で、カメラも普通に使わせてくれた」と懐かしむ。

   次第に、「私の親を撮って」などと同級生や先輩に頼まれるようになる。写真は今のように気軽に撮れない時代。現像も自分でできるように勉強し、フィルムに撮った写真をプレゼントしていた。「とても大事にしてくれて、遺影にしたと話す人もいた」

   高校卒業後、身長176センチの体格を先輩から見込まれ、造船所に誘われた。就職し、タンカー造りで溶接作業に励んだ。「視力もよかったので、素早く作業もできて、いろんなところで使ってもらった」と振り返る。

   古里の横須賀市を離れ、苫小牧市に移り住むきっかけも溶接の仕事だった。厚真町の苫東厚真発電所の火力発電所建設作業に携わる中で、苫小牧に1年近く滞在した。その後、戻った横須賀の暑さに耐えられず、定年が近かったこともあり、涼しい苫小牧への移住を決意した。苫小牧暮らしもすでに30年近くになる。

   最初、知り合いは全くいなかったが、ここでも趣味のカメラがいろんなチャンスをつくってくれた。「カメラを持ってイベントに行くと、鈴木の写真がいい―と重宝された」と笑顔を見せる。多い時は100枚以上も、フィルムの写真をプレゼントしていた。

   50代でパソコンの勉強を始めたのは、デジタルカメラの画像データをプリントできるようになるため。フィルムよりも格段に経費が掛からなくなった。最近まで自転車に乗ったり、公共交通機関を使ったりして催しに出掛け、その場で「欲しい」と頼まれれば後日、ラミネート加工した1枚を贈ってきた。「お金をもらっていないから、アマチュア。たくさんの手紙やお礼が届くので、それはうれしいね」と目を細める。

   しかし、コロナ禍でこうした交流が難しくなった。今、手元に残るのはコロナ前のたくさんの笑顔の写真。「なんとか、また、笑顔の写真を撮りたい」。鈴木さんの最大の願いだ。

  (河村俊之)

   鈴木 穹(すずき・たかし) 1936(昭和11)年5月、東京生まれ。戦時中は神奈川県の茅ヶ崎に疎開したが、近くの平塚への空襲の恐ろしさを記憶している。「戦時中は肩寄せ合って乗り切ったが、コロナはそれができないから、戦争よりつらい気持ちになるところがある」。苫小牧市青葉町在住。

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