「今の私や会社があるのは周囲の方々がいたから」。志田修二さん(83)は語る。
1938(昭和13)年に山形県米沢市で生まれ、幼少期から実家の米農家の手伝いに励んだ。「代掻き」は兄がくわを持ち、自身が馬を引いて行う大変な作業だったが、兄との大切な思い出でもある。走ることが大好きだった修二さんは陸上や野球、クロスカントリー、スキージャンプなど、夏も冬もスポーツに打ち込む少年だったという。
米沢三沢東部中学校に入学後、陸上クラブに入った。農家の作業で培われた足腰の強さで、地区大会5000メートルで優勝し、県大会に出場。クロスカントリースキーでも県大会で上位入賞を果たした。クロスカントリーでは優勝目指して地元の高校生との合同練習に明け暮れたが、雪不足のため大会が中止になった年もあり、悔しい思いも経験した。
米沢工業高校入学後は、陸上部ではないものの駅伝選手に選出され、県大会で準優勝を果たす。中学の先輩の影響でスキー部に入部し、ジャンプにも挑戦。入部間もない1年生時に県大会ノルディック複合で優勝、全国大会出場の経験を持つ。
2年生の11月、母親に頼まれた庭の柿を取ろうとしてはしごから落下、膝をけがしてシーズンを棒に振ることになった。「母親は先生に苦情を言われたんじゃないかな」と笑う。けがを克服した3年時には県大会で優勝、全国大会3位、国体3位と奇跡の復活も果たした。
高校卒業後は日本大学二部(夜間)に入学。午前中にアルバイト、午後は練習、夜間は授業を受ける苦学生を4年間続けた。大変なことも多かったが、その中でも国体などさまざまな大会に出場し、好成績を残した。就職後は水泳にもチャレンジするなど「学生時代からスポーツ一筋の人生でもあった」と振り返る。
東京美装社員時代の63年に、所長として苫小牧市に移り住んだ。10年ほどホテルのベッドメーキングやスケートリンクの整備などに従事した後、75年にビル管理会社苫小牧エージェンシーを立ち上げ独立。「喜んでもらえる仕事」をモットーに約半世紀、苫小牧市や市民と共に歩み続けた。60歳を過ぎてからアイスホッケーにもチャレンジし、実業団チームのOBらでつくる「苫小牧イーグル」の一員として汗を流した。
苫小牧陸上競技協会の会長時代は、土トラックのままだった緑ケ丘公園陸上競技場の全天候型への改修に尽力した。「苫小牧から一人でも多くの有名選手が生まれること」を願い、苫小牧陸上界の向上に努めることができたと胸を張る。
26歳で結婚。朝から晩まで仕事に全集中させてくれた妻には頭が上がらない。「安心して3人の子どもたちを任せられた」と感謝の言葉を述べた。
(小笠原皓大)
志田 修二(しだ・しゅうじ) 1938(昭和13)年11月、山形県米沢市生まれ。ビル管理会社苫小牧エージェンシー取締役会長。苫小牧陸上競技協会顧問。やまがた特命観光・つや姫大使も務め、山形のブランド米の魅力も発信している。苫小牧市錦西町在住。