「明るいものに都合の悪いものを溶かし込んで、私たちの心を何か巨大な力で誘導してはいないか」
高橋善雄さん(89)=苫小牧市大成町=は、兄を戦争で亡くし、軍事教練や援農に明け暮れた日々を静かに振り返った。今月8日まで、17日間にわたって繰り広げられた平和の祭典・東京五輪。その進め方に、あの頃と似たものを感じ、不安が幼少期の記憶と結び付いた。「競技も観戦も命あってこそ。コロナ下の開催は、本当に私たちの命を大切に思って決めたのか」と問い掛ける。
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10歳、年の離れたすぐ上の兄・俊男さんは、末弟の善雄さんをかわいがり、戦地からよくはがきをくれた。今残っているのは旭川や満州、沖縄から送られてきた4枚と軍服姿の兄の写真2枚のみ。「大切にとっておいたのだが、引っ越すたびに散逸してしまった。残ったのはこれだけ」と寂しげな表情を見せる。はがきも写真もセピア色にあせて、角が丸くなるなど劣化が進む。
時間がなかったのか、殴り書きのようなペン字。それでも端々に「みんな元気か」と古里の家族を思いやる気持ちがにじみ出ている。どのはがきにも、部隊の上官である中尉や大尉の真っ赤な検閲印が押されてあり、内容が厳しくチェックされたであろうことがうかがえた。沖縄戦の前年である44年に届いた最後のはがきもやはり急いで書いただろう筆跡で「善雄元気か。父母と祖父母を大切に」とだけつづられていた。
「最後まで心配させないように気遣う兄の思いが短い文章から伝わってきた。本当はどんな状況にあったか。書きたくても書けなかったろう」と、唇を震わせながら語る。
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俊男さんは陸軍に所属し、旭川から満州(現中国東北部)へ渡り、戦争末期は第10方面軍旗下の第24師団(山部隊)野砲兵第42連隊に所属。伍長として沖縄戦に臨み、5月4日、本島南部の首里で戦死した。23歳だった。そうした事実は、戦後、遺族会などがまとめた沖縄戦の資料などから少しずつ分かった。「静内町(現新ひだか町静内)の米農家出身で荷馬車を扱った経験を買われ、野砲を引くための軍馬を飼育する係だった」と言う。
幼くして別れた兄の面影はおぼろげだが、優しく温かい感覚だけは今も心にしっかり残っている。訃報は、終戦直前に紙切れ1枚でもたらされた。遺骨だと渡されたのは空の木箱。「なぜ、どうして死んだのか。兄はどこにいるのか。『御国のため』という時代で当時は何も言えなかったが、不都合なことが隠されているという気が今もしている」と語気を強めた。
善雄さんの幼少期は「労働と命令のためのどう喝が生活を支配していた」と指摘。援農や塹壕(ざんごう)掘り、軍事教練に明け暮れた小学生時代は勉強もできず、楽しいことを考える余裕などなかった。
家系は、いずれも長寿で100歳を超える親戚が少なくない。「兄も生きていれば100歳になっていたかもしれない」。戦争がなければ―との思いは強い。「どう喝がまかり通る社会で、大切な人を亡くす思いを若い人たちにしてほしくない」