4 渡辺清一さん(86、苫小牧市柳町) 10歳の時に自宅で被爆、一生を変えてしまう

  • 戦後76年企画 記憶を受け継ぐ, 特集
  • 2021年8月12日
「戦争の被害者として多くの人に体験を伝えたい」と渡辺さん

  「今にも降参だと手を挙げそうな日本に対して、原子爆弾を試しに使った。こんなことが許せますか」。それまで穏やかだった表情が一変。渡辺清一さん(86)=苫小牧市柳町=は、怒りに満ちた力強い口調で語った。

   10歳の時、爆心地から3キロ離れた長崎市内の自宅で被爆した。幸い、やけどなど大きな外傷はなかったが、原爆は長い年月をかけて体をむしばみ、さまざまな病気に苦しめられてきた。2019年春には、甲状腺乳頭がんを発病。医師から女性に多い病気で被ばくしていれば男性も発病しやすいことの説明を受けた。自分の家族に迷惑を掛けたくないと被爆者であることを隠して生活してきたが、体には被爆の傷跡がくっきりと刻まれていた。

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   原爆が投下された8月9日は夏休み期間の真っ最中。西浦上国民学校(小学校)の4年生で、1歳の妹と留守番中だった。妹を寝かしつけた後、生活の足しに―と、200メートルほど離れた川平川で手長エビやモズクガニを捕まえていた。その時、突然「ウウーン」とサイレンの音が町中に響き渡った。妹のことが心配になり、大急ぎで自宅に戻って台所で、捕ったエビの処理をしていると、目もくらむほどの稲妻光線が走った。ドーンという高音と共に強力な熱風が玄関側から吹き付け、台所の壁にたたき付けられた。ふすまや障子、家具が皆、飛び散った。

   辺り一面、焼け野原となったが、約260平方メートルの自宅は辛うじて骨組みだけが残った。そのためか、「助けてほしい」と生き残った多くの人たちが自宅に押し寄せた。

   辺りを見渡すと、防火用水や近くの川に顔を突っ込む人々、牛、馬などの動物たちの姿が目に飛び込んできた。「ぼっちゃん、水ちょうだい」と悲しい女性の叫び声。かわいそうと思い、水をあげていると「おまえ、人殺しする気か。水をあげたら死んじゃうぞ」と道行く大人にひどく叱られた。負傷した人の傷口にはギンバエがたかり、卵を産み付けていた。鼻や口からはウジ虫が出入りしていた。何百人もの死人を見た。原爆投下後、雲が懸かっていないにもかかわらず、空は煙で真っ黒。ドロッと粘り気のある黒い雨が地上に降り注いだ。白いワイシャツが、洗濯しても白くならないほどだった。

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   終戦後は西浦上中学校、長崎重工長崎造船所技術専門学校を卒業し、陸上自衛官に。北の地を守る自衛官の募集に心を動かされ、1954年上川管内の上富良野駐屯地特車大隊に入隊した。主に車両の運転を任された。6年間の勤務後、旭川市の自動車学校教習所で教官をし、70年に苫小牧市に移住。62歳までタクシー会社で働いた。

   原爆を体験してから76年。「生き残っても、その人の一生を変えてしまう。今思うと、雨には放射能が含まれていたのだろう」。その後、心筋梗塞や糖尿病などの病気にかかるたび、「被爆のせいでは…」と疑いながら生きてきた。「原爆や核兵器を使うことは絶対許してはいけない。戦争の被害者として風化させることがないよう、若い人に語ることが義務だと思っている」と述べた。

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