日本で唯一、地上戦が繰り広げられた沖縄。中でも浦添市前田地区は米軍による攻撃が集中し、「ありったけの地獄を一つにまとめたよう」と表現されるほどの凄惨(せいさん)な戦いとなった。
丹治秀一さん(98)=苫小牧市植苗=が所属していた陸軍満州803部隊もこの戦いに投入され、多くの仲間が戦死した。丹治さんが訓練のため、隊を離れていた際の出来事だった。偶然生き残った自分。「本当なら沖縄で死んでいてもおかしくなかった。生かされている以上、全力で頑張らなきゃいけないと思ってきた」。残された命の重みを感じながらの戦後76年間だった。
■ ■
植苗で生まれ、8人きょうだいの三男として育ち、物心ついた時に日本は中国との軍事衝突を繰り返しており、日本軍の活躍に心躍らせる少年時代を過ごした。家業を手伝いながら美沢にあった植苗農業青年学校に通い、軍事訓練に打ち込んだ。
1943(昭和18)年、徴兵検査に甲種で合格。満州(現中国東北部)で兵役に当たる兵士を募集していることを知り、志願した。希望がかない、満州803部隊に入隊してロシアとの国境付近で警備に当たった。
木造の簡素な三角兵舎で寝起きをしながら、ひたすら任務に没頭した。熱心な働きに目を留めた上官から「お前、一生懸命だから軍人にならんか」と声を掛けられ、44年6月、部隊を離れて1人、養成機関に向かった。
これが運命の分かれ道だった。
■ ■
3カ月ほどの訓練を終えて兵舎に戻ると、仲間の姿はなかった。残っていた兵士に聞くと、部隊は北方警備のため、千島付近に移動したという。自分はそのまま満州にとどまり、別部隊で初年兵の指導に当たった。翌45年春、守備任務のため朝鮮半島の南海にある済州島に移った。しかし、そこで耳にしたのは「803部隊は沖縄で玉砕した」というあまりにも悲しい現実だった。
言い表せない感情に包まれたまま、迎えた終戦。仲間の最期を知りたいと思い、戦後、何度も沖縄へ足を運んだ。自分が部隊を離れる際、「また会う時まで、元気でやれよ」と送り出してくれた上官も激戦の末に亡くなっていたことが分かった。「函館出身の人でね、年齢も私とそんなに変わらなかった。どんな思いで死んでいったのだろう」。別れ際の笑顔が今も忘れられない。
戦後、日本は経済大国に成長。苫小牧のまちの発展を植苗から見続けてきた。しかし、近年の政治の混迷ぶりを見ていると、不安がよぎる。「自分の立場だけ考えた政治は、いずれ争いを生む。戦争を二度と起こさないためにも、みんなのためを思った政治をしてもらいたい」と訴える。平和な社会の実現こそが、無念のうちに散っていった仲間の願いであるはずだからだ。