大漁旗をたなびかせた真新しい漁船の写真が宝物という。長男の政徳さん(45)が4年前、初めて手に入れた新造船だ。船名は、自分が乗っていた船と同じ「第一一八錦洋丸」。跡継ぎとして頑張る息子を誇らしく思う。
戦争が終わって2年後の1947年、白老村(現白老町)で漁業を営む家に生まれた。中学校を卒業後、地元の高校定時制に通いながら、父末蔵さん(2006年に84歳で死去)と一緒に漁船に乗り、がむしゃらに働いた。主軸のスケトウダラ漁の時期になれば、寒い夜中に船を出し、朝方に戻る毎日。「高校生活との両立が難しくなり、2年生の時に中退し、漁師として生きる覚悟を決めた」と回想する。
その頃は、まだ白老に漁港がない時代。白老町高砂町にあった自宅のそばに広がる前浜から船を押して出漁し、戻れば巻き上げロープで再び浜へ。波が高ければ、疲労は倍増する。それでも魚がたくさん取れれば、疲れも吹っ飛んだ。父の背を追いながら、いつしか一人前の漁師になった。
1960年代に父が白老で初めて導入したディーゼルエンジンの動力船に乗り込み、サケやカレイ、エビ、カニなどの漁に日々奮闘した。ノリやワカメの養殖にも挑戦したが、しけで漁場が流されてしまい、養殖を1年で諦めた。「せっかく育っていたのに駄目になった。その悔しさは今でも思い出す」と話す。
不漁や魚価の落ち込みに何度も苦しんだ。しかし、いつも誠実に仕事と向き合う姿勢は、仲間の信頼を集め、地元漁師のリーダー的な存在になっていった。漁協メンバーとして漁業振興にも力を入れ、80年代からサケの増殖に挑んだ。育てたサケの稚魚を放流し、資源量を増やす事業は水産のまち白老の礎を築いた。今は政徳さんに家業を引き継いだが、いぶり中央漁協(本所登別市)の副組合長として地域の水産業を支える活動を続けている。
「人の世は順風満帆とはいかないもの。私も不幸な出来事に見舞われた」と言う。94年に44歳の妻を病気で、翌年に18歳の二女を交通事故で亡くした。立て続けに家族を失った悲しみに暮れながらも、立ち直るために努めて漁に励んだ。「仕事でも、家族のことでも、いろんな目に遭ったけれど、漁師を全うできたのは本当に良かったと思うよ」。白老の海に生かされ、癒やされもした人生だった―と振り返る。
アイヌ文化の伝承にも携わっている。母親の家系は、漁労をなりわいとした白老のアイヌ民族。「先祖も海と共に生きた。その血を引く者として民族の漁労文化を残したい」と、伝統漁具を使った体験行事で指導に当たることもある。
長女や孫と共に暮らし、隣の家には息子夫婦が住む。子供や孫に囲まれた穏やかな生活に幸せを感じている。(下川原毅)
中村 政信(なかむら・まさのぶ) 1947(昭和22)年10月、白老村(現白老町)生まれ。胆振管内さけ・ます増殖事業協会会長など漁業関係の要職を務める。白老モシリ理事、アイヌ民族文化財団理事でもある。白老町大町在住。