現代と比べ、結婚して子どもがいる女性が働くことが一般的ではなかった1969(昭和44)年。苫小牧市内で菅原編物学院を設立し、生徒に編み物の楽しさや奥深さを伝えてきた菅原節子さん(85)。「学び続けることは私の使命」と話し、80歳を超えた今も、最新の流行を敏感に取り入れたデザイン研究や作品制作に打ち込む日々を送っている。
36年、安平村(現安平町)で生まれ、地元の中学校を卒業後、洋裁を学ぶ学校に入った。卒業後も「もっと勉強を続けたい」と、札幌市内の北海道編物専門学校に入学。全国編物手芸連盟が認定する編物手芸教師の資格を取得した。
卒業して地元に帰った後、23歳で苫小牧の会社員修司さん(87)と結婚。音羽町にあった、修司さんが勤める会社の社宅で暮らし、家計の助けになれば―と洋裁や編み物の内職も始めた。丁寧な手仕事とおしゃれなデザインが評判を呼び、個人をはじめ企業やスポーツチームなどからも注文が舞い込むように。「編み物を教えてほしい」という女性も次々に集まり、社宅では仕事をこなせないほど人気となった。
それでも、2人の息子がまだ小さかったこともあり、「教室を開くことは夢にも考えていなかった」と言う。しかし、家族や周りの強い後押しを受け、69年4月、栄町に菅原編物学院を開設。おしゃれに関心がある女性たちがこぞって集まり、大盛況となった。
その後、同学院は豊川町に移転。生徒や後進の指導に励む一方で、デザインの研究にも精を出した。業界団体が発行する機関誌をくまなく読み込んだほか、町を歩く人の服装やテレビに映るアナウンサーの衣装も熱心に観察。最新の流行を取り入れつつ、苫小牧市民が好むようなデザインを考案し、次々と独自の作品を生み出してきた。
生徒の励みになれば―と、展示会も積極的に開いた。本番間際になると、準備に励む生徒の熱気も高まり、その様子に自身も刺激を受けてきた。共に学ぶ仲間同士の絆を強めようと、旅行やレクリエーションといったイベントも実施。「道内外の観光地を巡ってつくってきた思い出は、今も大切な宝物」とほほ笑む。
既製の服が安価で手に入る時代となり、「編み物や洋裁に関心を持つ人が減り、編み物文化が下火になっている」と感じている。生徒も最盛期の半数以下に減った。それでも「おしゃれな服を自分で作って着たい」という熱意を持ち、通ってきてくれる人がいる限りは指導を続けたいと考えている。
「自分は本当に周りの人たちに恵まれ、ここまで続けることができた。関わってくださった皆さんに深く感謝し、これからも努力を続けます」と語った。
(姉歯百合子)
菅原 節子(すがわら・せつこ) 1936(昭和11)年3月、安平村(現安平町)で農業と酪農業を営む両親の間に誕生。2人の男児を育てながら、手編みや機械編み、手芸、洋裁などを教える菅原編物学院を創設。春と秋に作品展示会を開き、手作りファンの市民らから喜ばれている。苫小牧市豊川町在住。