倉下電機社長 倉下 健次さん(63) 頼りにされる「まちのでんきや」 家族力合わせて 妻の後押しで独立決意 後継ぎ息子の頑張り温かく見守る

  • ひと百人物語, 特集
  • 2021年7月3日
まな息子の奮闘を温かく見守る倉下さん
まな息子の奮闘を温かく見守る倉下さん
磯崎電機在籍時の集合写真。笑顔の倉下さん(右から3番目)=1995年1月
磯崎電機在籍時の集合写真。笑顔の倉下さん(右から3番目)=1995年1月
若林会館(幸町)での披露宴の様子=1987年
若林会館(幸町)での披露宴の様子=1987年
現店舗(清水町)開店記念=2016年4月
現店舗(清水町)開店記念=2016年4月
雅貴さん(左)に指導する倉下さん
雅貴さん(左)に指導する倉下さん

  電器店一筋43年、倉下電機(苫小牧市清水町)社長の倉下健次さん(63)はきょうも「まちのでんきやさん」として、苫小牧じゅうを駆け回る。

   少年時代から機械いじりが趣味で、「高校生の頃はバイクを自分で修理していた」と語る。専門学校へ進学後、学校宛てに届いた求人票の中から、当時苫小牧市内に5店舗を構えていた磯崎電機を受験した。

   1978年に入社後、シャイな性格から営業トークはうまくできなかった。なかなか売り上げにつながらない中、大切にしていたのは「忘れないこと」。頼まれごとを忘れないのはもちろん、その人の家族や納品した家電の置き場所まできっちり覚えた。自身は「口下手」と卑下するが、誠実さにひかれて根強い顧客が増えていった。

   87年に行きつけの中華料理店でアルバイトをしていた順子さん(55)と結婚。3人の子宝に恵まれ、温かい家庭を築いていたが、97年12月24日、事態は急変した。

   朝起きると、体が左右から圧迫されるような違和感に襲われた。車を運転して病院へ向かい、医師から告げられたのは心筋梗塞。すぐさま入院、手術となった。「もう30分遅かったら助からなかった。なぜ救急車で来なかったと医者に叱られた」と苦笑い。20日間入院したが、退院すると翌日から仕事に復帰した。

   夫婦で仕事と育児に追われ、多忙な毎日を送った。辞表を提出したこともあったが、懇意にしてくれる客に引き留められて仕事に励み続けた。そんな折、突然の知らせが舞い込んだ。磯崎電機の社長が病に倒れ、店を畳むという。

   言葉を失った。電機店以外に転職するか、後志管内ニセコ町の実家に帰って農業を始めるか―。身の振り方に悩む日々が続いた。その背中を押したのは、順子さんだった。「自分の好きなことをすればいい」。四半世紀以上連れ添った伴侶の一言で、独立して電機店を営む決心をした。

   2015年4月1日、元中野町で倉下電機を開業。一人きりで全てこなす大変さに直面しながらも、順子さんが事務処理を担い、家族総出で幾つもの荒波を乗り越えてきた。

   16年4月、清水町の現店舗に移転。現在は三男の雅貴さん(23)が後を継ぐべく奮闘している。まな息子の頑張る姿に「私に似て口下手。一緒にお客さんのところを回っている間に慣れてほしい」と温かなまなざしを注ぐ。

   修理依頼の電話はひっきりなしにかかってくるが、「身体を動かしている方が好き」と、仕事漬けの毎日をむしろ喜ぶ。「この人にとって電機屋は天職」―。順子さんの言葉に、静かに顔をほころばせた。

  (伊藤鈴夏)

   倉下 健次(くらした・けんじ) 1958(昭和33)年3月、後志管内ニセコ町生まれ。78年に苫小牧市内の磯崎電機に入社。閉店に伴い、2015年4月から元中野町で倉下電機を開業。16年4月、清水町の現店舗に移転した。たまの休みは妻の順子さんと温泉へ足を運ぶ。郷土がお気に入りで、「やっぱり温泉はニセコ」と微笑む。苫小牧市有珠の沢町在住。

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