苫小牧市光洋町町内会長の都築秀男さん(81)は「仕事一筋の人生だった」と半生を振り返る。電気柵の営業職として全国各地を飛び回った20代から40代にかけて、旧国鉄時代の乗車券を集めてきたことが「人生唯一にして最大の趣味だったかもしれない」とほほ笑む。
1939(昭和14)年10月、旧樺太(現ロシア・サハリン洲)の恵須取支庁塔路町(現シャフチョルスク)で三菱炭鉱の鉱員だった父・順二さんと母秀子さんのもと、1男2女の長男として誕生した。
平和だった樺太の幼少時代は45年に終わりを告げた。国民学校の1年生に入学して間もなく旧ソ連(現ロシア)が日ソ不可侵条約を破棄して樺太領内に侵入したからだ。児童3000人の塔路小学校は日本とソ連の併用になった。「毎日のように日ソの児童同士のけんかが絶えなかった」。47年秋になり、塔路から貨車で引き揚げ船のある真岡(現ホルムスク)に南下。家族5人で船に乗り、函館に上陸した。この時に噴霧された殺虫剤DDTの感覚と、その後に配られたリンゴの味は「忘れられない」。
親戚がいた渡島管内八雲町や父の勤務先があった芦別町(現芦別市)での暮らしを経て14歳の時、定年退職した父と門別町(現日高町)富川の開拓農家を手伝うため移住。田畑の開墾と雑木林の伐採作業に明け暮れた。「重機のない時代に手作業でよく続けられたと思う」。15歳、修学旅行の帰路の青森で洞爺丸台風をかろうじて逃れた。「洞爺丸事故前日に予定を変更していた。海に浮かぶ船体を横目に事故の恐ろしさを思いながら函館に着いた」。
富川高校卒業後は苫小牧市内で家電や酪農用電気柵を扱うメーカーに電気柵の営業職として入社。当時ライバル社が道内シェア8割を占有する中、逆転を目標に農協や個人農家をくまなく回り、5年ほどで目標を達成した。「社長の技術がこもった製品だったから自信を持って営業できた」と胸を張る。販路拡大で会社が東京に事務所を構えると、関東甲信越を一人で営業に歩いた。64年の東京五輪前後には九州方面にも拡大し、年間販売台数で1000台を扱うまでに至った。営業先の旅の思い出に―と旧国鉄時代の乗車券を集めたのは、この時期だ。
実力を買われ、計3度の転職を経て61歳で定年退職。その後も75歳までガソリンスタンドで仕事を続けた。「古い切符を眺めながら、訪ねた土地の思い出話に花を咲かせたい」と同じ趣味を持つ人に本紙を通じて呼び掛けた。「高校時代の友人が久しぶりに電話をくれたり、切符をもらってほしいという依頼があったり、懐かしく楽しい時間を過ごせた」とにっこり。穏やかな毎日をかみしめている。
(半澤孝平)
都築 秀男(つづき・ひでお) 1939(昭和14)年10月、旧樺太の恵須取(えすとる)支庁塔路(とうろ)町生まれ。57年、日高町の北海道富川高校卒業。66年に苫小牧市で妻の郁子さんと結婚。2019年から光洋町町内会長を務める。