アドーネス園長 加藤 啓子さん(91) 苫小牧市初の女性議員  「心の支えに」寄せられる相談に耳傾ける 地域福祉のため私財投じ老人ホーム建設

  • ひと百人物語, 特集
  • 2021年5月1日
「100歳が目標」とにこやかに話す加藤さん
「100歳が目標」とにこやかに話す加藤さん
光洋中おやじの会からベンチの寄贈を受けた加藤さん=2007年3月
光洋中おやじの会からベンチの寄贈を受けた加藤さん=2007年3月
当選1期目の議員名簿から=1975年
当選1期目の議員名簿から=1975年
市議会での加藤さん(左)の一般質問を取り上げた苫小牧民報の記事=1978年6月
市議会での加藤さん(左)の一般質問を取り上げた苫小牧民報の記事=1978年6月

  苫小牧市で1971年から市議会議員を8期(32年)務めた。市内で初めての女性議員。女性の社会進出や命を大切にする社会づくりを訴えた。市政のみならず、地域住民から私生活の相談をされることも多く、忙しい日々を過ごしたが「心の支えとなり、道を開いてあげなくては」と親身になって話を聞いた。

   苫小牧市で生まれ育ち、地域の変遷を見続けてきた。苫小牧高等女学校(現苫小牧西高校)に通っていた頃は戦争中で、女子生徒も軍需工場に徴用された。貯木場に積まれたマツの丸太の皮を●【92a8】ぎ、軍用油を取る作業に汗を流した。戦争も終わり、卒業後は弥生中学校で代用教員として働いた。「教員生活は10年間ほどだったが、この時代が一番楽しかった。教員をしてよかった」と懐かしむ。

   市議会議員になるきっかけは40歳の頃、当時の社会党員から「女性議員を擁立したい」と誘いを受けたことだった。最初は断っていたが何度も何度も要請され、夫も「手伝うからやってみたら」と背中を押してくれた。選挙活動は、教員時代の生徒が手伝ってくれた。自転車で地域を回ると、「女性候補」という珍しさからか、住民がみんな手を振ってくれた―と回顧する。初めての選挙戦は4番目の得票数で当選。地域住民への感謝と期待を感じた。

   議員になってからは、特に女性から相談を寄せられることが多かった。夜中に自宅の電話が鳴り、受話器を取ると「主人が亡くなった」と泣きながら話す相談者もいた。

   女性だからといって議会で嫌な思いをすることはなかったが、最初はヤジで落ち込んだ。日に日に慣れていき、苫小牧東部開発などの課題について、夜中まで議論し「家族には不自由を掛けることも多かった」と話す。

   園長を務める市内山手町のアドーネス園は、1979年4月に開設した市内第1号の軽費老人ホーム。

   かつて夏はボート遊び、冬には天然のスケートリンクとなり、子どもたちでにぎわった「サバナイ沼」の埋め立て地を、両親が所有していた。地域住民の憩いの場だったことから「地域福祉のために使ってほしい」と両親から譲り受けた土地に建設した。

   議員報酬は全て建設につぎ込んだ。「うば捨て山」と揶揄(やゆ)されたこともあったが、受け付けを始めると定員を超える申し込みが寄せられた。「年を取っても安心だ」と地域の住民に喜ばれた。

   現在も園長を務める加藤さん。休日には十分な睡眠を取り、大好きな肉やすし、刺し身を食べて過ごす。「入所者の皆さんと100歳を目標にして、楽しく過ごしています」と柔らかな笑顔を見せた。

  (松原俊介)

  加藤 啓子(かとう・けいこ) 1929(昭和4)年8月、苫小牧市生まれ。趣味は詩吟と合唱で、施設の入所者と共に楽しみ、老人クラブ「末広町寿クラブ」の会長も務める。苫小牧市末広町在住。

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