囲碁に触れたのは、苫小牧西高校3年生の頃だ。きっかけは4歳離れた兄だった。大学で囲碁を覚えた兄が帰省したとき、簡単なルールを説明され、暇つぶしの相手をさせられた。「最初はめちゃくちゃに負けてね。それが何か悔しくて」
クラスに偶然、祖父から囲碁を教わっていた同級生がいて、彼が学校に手作りの碁盤を持ってきて放課後に打つようになった。2人とも同じぐらいの実力で、切磋琢磨(せっさたくま)し合った。兄との力差も、少しずつ縮まった。
その後、進学した東海大学時代は囲碁から離れていた。再び始めたのは1978年、苫小牧市役所に奉職してから。職場の福利厚生の一つに囲碁部があり、先輩に誘われた。
入部時はアマ2、3級程度の実力。現在も同部は部員3人で存続しているが、当時は約100人に達していた。「強い先輩が多くて、鍛えてもらった」と振り返る。
タイトル戦の苫小牧開催も何度か実現できた。地元の経営者の中に囲碁好きが多く、協力的だったこともあり、85年に第10期名人戦第4局を道内の地方都市では初めて開催。趙治勲名人を旭川市出身の小林光一十段が破った一局。小林十段はその後も勝利を重ね、初の名人位を得た。会場で趣味の写真を生かし、記録係として手伝った。98年には市制50周年の関連事業で、趙治勲本因坊対王立誠九段の第53期本因坊戦第5局の誘致にも携わった。
86年には市教育委員会からの依頼で、囲碁の入門講座の講師も初めて経験。豊川コミュニティセンターで約20人の受講者を相手に、20ページ程度のテキストも手作りして全10回にわたり、打ち方を基礎から教えた。
2008年に中国・秦皇島市との国際友好都市の盟約締結10周年を記念し、苫小牧から約120人の市民訪問団が秦皇島を訪れた際には、自身を含む日本棋院苫小牧支部のメンバーも参加した。現地の人たちと言葉を超え、囲碁の交流を楽しんだ。「中国では囲碁が頭脳スポーツに位置付けられており、対戦した人は生徒もたくさんいて年収2000万円と話していた。誰もがとても強くて、手も足も出なかった」と懐かしむ。
市役所退職後、同支部の有志で普及活動を本格化させた。苫小牧囲碁伝統文化普及会代表となり、各コミセンで講師を仲間と手分けし、子どもからお年寄りまで触れ合いを大切にした囲碁講座を展開。保護者の協力を得て子どもたちへの新たな情報発信を始めた直後に、新型コロナウイルスで活動の制約を余儀なくされた。「集中力が磨かれ、世代を超えた交流もでき、いろんな学びが得られるのが囲碁。子どもたちや親の世代にその魅力をなんとか伝えたい」と知恵を絞る。
(河村俊之)
遠藤 弘幸(えんどう・ひろゆき) 1952(昭和27)年7月、苫小牧市生まれ。囲碁は日本棋院苫小牧支部の八段格。ボウリングも趣味。市職員時代は区画整理や公園造り、道路整備の他、上下水道事業に携わった。娘3人は自立して、妻の伸江さんと2人暮らし。苫小牧市明野新町在住。