「もしも…」の世界が面白くて、僕も例えを一つ考えてみた。「もしも日本の島の面積をおりがみであらわすと」択捉島は六枚、国後島は三枚、沖縄島は二枚と二分の一、佐渡島は一枚と三分の二、大島は一枚と二分の一、対馬島は一枚と三分の一、淡路島と屋久島は一枚になる。この、面積を折り紙であらわす方法はわかりやすかっただろうか。ペットボトル何本分になるかであらわした方がよりわかりやすかっただろうか。できるだけ縮尺を正確にあらわすことができているだろうか。一つの例だけでもいろいろ気付かされるところがあって、とても面白い作業だった。
僕が読んだ「もしも地球がひとつのリンゴだったら」という本は、規模が大きくて理解しにくい事柄を「縮尺」を使ってわかりやすく表現してくれている本だ。特に興味深かったのは「太陽系の惑星」と「水」の例だ。
「太陽系の惑星」では、惑星をボールに例えている。地球が野球ボールだとして、水星は卓球のボール、木星は大きなバランスボールほどもある。誰もが知っている身近なボールを使って比べていて、とてもイメージがしやすい。そして「水」の方は、地球上の水をコップ百杯に例えている。コップ百杯のうち、九十七杯は海や一部の湖の塩水でのこりの三杯が真水で、僕たちが飲むことができるのはたった一杯だけだ。今までたくさんある水の量のことなど気にしたことはなかった。でもこの「水」を読んだとき、地球にある九十九パーセントの水が僕たちが使うことのできない水なんだと見てすぐに理解することができた。
「この絵本はすごい!」決して厚くはない絵本なのに、読み終えた時、教科書や図鑑を何冊も読んだかのようにデータが頭の片隅に残っている。見てパッとわかる「縮尺」の素晴らしさに触れ、僕は「縮尺とはなんだろう」と考えるきっかけを得た。地図、フィギュア、年表……僕たちの身の回りには縮尺を使ってあらわされているものがいろいろある。この本を読むまで深く考えず当たり前であるかのように地図を使ってきたが、よく考えるとなぜ僕は日本の形を知っているのだろう。実際に見たこともないのに、北海道の特徴的な形や本州、四国、九州と、日本列島の形を思い浮かべることができる。伊能忠敬をはじめとした先人たちの努力によって国土の正確な姿が測量され、今、僕達は地図を使って勉強したり、出掛けたりできるのだ。歴史にしても同じことだ。長い年月をかけて書き伝えたり、調査して明らかになったり、たくさんの先人たちのおかげで過去にどのような出来事があったのか、日本や世界のことを簡単に知ることができる。
様々な情報を便利に使うことができるのは当たり前のことではない。多くの人の手によって今の僕の元に届いている。このことに気付かせてくれたこの本と、関わってきた多くの人々、多くの事柄に感謝しながら、これからも使っていきたいと思った。
大きすぎる数字を並べてみてもそれが実際どのくらいになるのか想像することは難しい。でもスケールダウンし、身の回りにある物に例えて表現することで、一目でイメージできるようになる。難しいなと思っていた経済などの数値や環境問題にも目を向けて考えることができるようになった。縮尺によって概念がわかりやすくなっただけでなく、自分を地球・宇宙の規模で見ることもできるようになった。縮尺することで視野が広がった。工夫することでこんなにも学ぶこと・知ることが楽しくなった。
三十五億年の生命の歴史を一日におきかえて、一日が終わるたった五秒前に登場した人間が、地球を一つのリンゴに縮尺したときの八分の一ほどのせまい土地で生きている。さらにそのごくわずかな部分をめぐって戦争がおきたりもする。大きなスケールから考えると小さな小さな人間たちが命を奪い合う行為はなんて意味がなくもったいないことをしているのだろうと思ってしまう。
反対にその小さな小さな人間がほんの一瞬の間に火を使い狩りを始め、家を作り、紙や電気、コンピューターなどの様々なものを生み出してきた。そして今僕たちは築き上げられてきたものを自分を取り巻く普通の環境として当然のように使うことができているのだ。
いつも忘れてしまうが、普通に暮らせることは当たり前のことではなく、水が飲めることにも家に住めることにも、健康でいられることにも感謝しなければならない。コロナ禍になる前の普通の暮らしが今はできない。でも、今まで人類が発明したり工夫したり協力し合って様々な困難を乗り越えてきたように、現在世界全体での問題になっている地球温暖化やマイクロプラスチック問題、新型コロナウイルスの問題にも取り組めるのではないかと思う。様々なことに気付きと視野を広げてくれた面白い本。読むことができよかった。