■熱気の中「五輪」へ
第6回全日本選手権大会を制した王子イーグルから選抜された五輪出場選手は原信男、北沢正辰、平元光善、安保繁そして二瓶寅男の5人。しかし、このうち安保は兵役のために出場できずに涙をのみ、4人とコーチの西田信一氏がドイツへ向かうことになった。
二瓶氏が50年前の座談会で回顧している。「忘れもしない昭和10年11月11日…」。役場前(現本幸町新川通)で壮行会が催された。見送りの行列が駅まで続き、駅のホームは歓喜する人々で埋め尽くされた。この日のために作られたオリンピック選手を送る歌が歌われ、出発の選手たちは列車の窓から身を乗り出し、手を振って応えた。「ホームを離れるとき、感激性の強い頃の22歳の私、すっかり感激してしまって、ただ涙がこぼれるばかりでした」
■世界の壁を知り闘志
東京、奉天(現瀋陽)で合宿練習、チーム編成をした。メンバーは王子イーグル4人、満州医大4人、慶大2人、早大、立大他から3人の計13人。シベリア鉄道でモスクワへ。ポーランド、チェコ、ハンガリーで練習試合をしたが見事に敗れ、ルーマニアでようやく引き分け。五輪開催地ドイツでも引き分けてどうにか自信を取り戻し、ガルミッシュ入りした。
開会式は2月6日。数万の観衆に埋まれたスキー場に28カ国(地域)の選手団が整列し、ヒトラー総統が開会を宣言した。
試合結果はこの大会で優勝したイギリスに0―3、スウェーデンに0―2と健闘したものの予選落ち。世界の壁の厚さを知り、「いつかは」と闘志を燃やした。
■たゆまぬ努力と研究
一行が帰国したのは4月3日。実に5カ月に及ぶ遠征だった。
この頃、苫小牧のスケート熱は最高潮に達していた。王子製紙は本格的なスケートリンクの造成を手掛け、翌1937年、東洋一といわれる「王子リンク」が完成する。
イーグルも「五人攻撃」に頼ってばかりいたのではない。「戸巻ノート」の後も、なお研究は続けられていた。苫小牧市立中央図書館には「戸巻ノート」と共に「戸巻」の朱印が押された「エデイ・ジェレアミによるアイスホッケー」というB5判、68ページ、手作りの翻訳指導書が残されている。製作年は不明。製作者は分からないが、多分イーグルの関係者であろう。これもまた、多くの人々の手で氷都が築き上げられてきた証しの一つである。
(一耕社代表・新沼友啓)
(おわり)