天野ファミリーファーム経営 天野清勝さん(73) 家族心一つに牧場経営 最高ランクの白老牛育てる 加工やレストランなど事業展開

  • ひと百人物語, 特集
  • 2021年3月20日
「いい白老牛を育てるため、まだまだ頑張りますよ」と話す天野清勝さん
「いい白老牛を育てるため、まだまだ頑張りますよ」と話す天野清勝さん
未熟に生まれた子牛の世話をする天野さんの子どもたち=1998年ごろ
未熟に生まれた子牛の世話をする天野さんの子どもたち=1998年ごろ
牧場で長女と遊ぶ天野さん=1985年ごろ
牧場で長女と遊ぶ天野さん=1985年ごろ
牧場を広げるため山林の木を伐採し、休憩を取る天野さん=1982年ごろ
牧場を広げるため山林の木を伐採し、休憩を取る天野さん=1982年ごろ

  白老町白老の道道白老大滝線沿いで黒毛和種を飼育する天野ファミリーファームの朝は早い。「おはよう、きょうも元気か」。牛舎の1頭1頭にそう声を掛け、餌や水やりなど忙しい一日が始まる。牛の気持ちに寄り添って世話をすれば、立派に育ってくれる。生産する白老牛の枝肉は昨年も最高ランクの格付けを受けた。牧場近くに構える直営の焼き肉レストランの人気も高い。白老牛は今や広く知られるブランド牛。町の一大産業化の一翼を担い、「ようやくここまで来た」と時折、感慨にふける。

   白老町が北海道で初めて黒毛和種を導入したのは、町制施行の1954年。これといった産業がなかった町の将来を案じ、当時の町長が肉牛に望みを託して島根県から44頭を買い付けた。子牛を農家に貸し出し、繁殖させる算段だったが、事は順調に運ばない。引き受けた農家は海の物とも山の物ともつかない真っ黒な牛に戸惑い、すぐに突き返す者もいた。乳牛牧場を営む父も挑んだが、最初はどう育てていいか分からない。「稲わらが好物という話を聞きつけ、古畳を切って牛に食わせる人もいたらしい。父も苦労したと思う」。飼育を諦めた人の行為か、電柱につながれた子牛が見つかったこともあった。

   子ども時代から牧場の仕事を手伝い、地元の高校定時制に通い始めてからは父と共に休みなく働いた。試行錯誤しながら次第に頭数を増やし、山林を切り開いては牧場を広げ、子牛の出荷を伸ばしていった。やっと軌道に乗り始めたのは、和牛の導入から10年後のことだった。1982年に苫小牧市の保育園に勤めていた志保子さん(65)と結婚。2男3女を授かった。家族を支えるため経営基盤の強化も図り、子牛の出荷にとどまらず肥育・枝肉生産の一貫体制を築いた。一時は100頭近くまで親牛を増やし、仲間の牧場主らと白老牛の銘柄化を進めた。

   家族は動物たちと常に一緒の暮らし。旅行にも行けなかったが、子どもたちは文句一つ口にしなかった。未熟に生まれた子牛を家の中に入れ、きょうだいで懸命に面倒をみた。経営がうまくいかなかったときも一家で心一つに乗り切った。家族の牧場―。そんな思いを込めて90年、天野牧場を天野ファミリーファームに改名した。牛の生産は長男勝晶さん(36)が跡継ぎとなり、志保子さんが99年から営む焼き肉レストランは二男勝人さん(34)が店長として切り盛りする。

   67年前、町外れの牧場にやって来た1頭の黒い子牛。それを原点に今では食肉加工やレストラン経営の6次化も成功させた。「子どもがつないでくれるのがうれしい。土地にはいつくばるようにして頑張った人生が報われる」。そう言い、雪解けの春を迎えた牧場に目を細めた。

  (下川原毅)

   天野 清勝(あまの・きよかつ) 1948(昭和23)年3月、白老村(現白老町)生まれ。旧白老高校定時制卒。牧場経営の2代目で、白老牛銘柄推進協議会メンバー。絵画制作を趣味とし、白老美術協会に所属している。白老町白老在住。

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