5 いまだ戻れぬまちの再生願う 10年経過も避難続く 原発事故伝える伝承館 福島県双葉町

  • 特集, 被災地の今 東日本大震災10年
  • 2021年3月15日
東日本大震災・原子力災害伝承館で勤務する泉田さん
東日本大震災・原子力災害伝承館で勤務する泉田さん
双葉町内に設置されている帰還困難区域の看板。震災から10年が経過しても、町民は自宅で暮らすことができない
双葉町内に設置されている帰還困難区域の看板。震災から10年が経過しても、町民は自宅で暮らすことができない

  13日に福島県双葉町を初めて訪れた。東京電力福島第1原子力発電所の原発事故により、全町民が町外へ避難した同町。町内が帰還困難区域と避難指示解除準備区域に分けられ、2020年3月に一部の地域で避難指示が解除されたが、企業誘致や住宅整備などを進める「先行解除」で、住民の避難は続いている。

   移動中、常磐自動車道沿いに放射線量を示す機器が設置されていた。同町役場周辺の住宅街は人けがなく、今まで訪れた被災地と違いが際立っていた。昨年9月に開館した東日本大震災・原子力災害伝承館を訪問すると、館内では原発事故後の東電の対応や原子力災害の影響などを映像を交えて伝えていた。

   同館によると、入館者数は12日現在3万9395人。収蔵物が約24万点あり、4月以降は企画展も検討している。入館者の対応に当たるアテンダントスタッフで同町出身の泉田淳さん(61)から話を聞いた。

   泉田さんは同県いわき市で生まれ、結婚を機に妻の実家がある同町両竹地区に移り住んだ。家族や地域住民と自然豊かな集落で充実した日々を過ごしていたが、11年3月11日の原発事故で生活が一変した。

   当時は南相馬市の小学校で教頭をしていたが、震災により避難所となった。避難者の移動後、同町に戻り、家族の無事を確認したが、自宅は津波で全壊していた。しばらく親戚宅に身を寄せた後、同県郡山市のアパートを借りた。

   20年3月に双葉南小学校の校長を退職したが、震災で当時務めていた学校の児童5人が死亡したことに心を痛めていた。「子どもたちに報いるような、恥ずかしくない生き方をしたい」と思い、同館の勤務を決めた。

   3年前に自宅を取り壊し、今は浪江町で単身赴任する日々。「福島は地震や津波、原子力災害がからみ、マイナスからの復興」と受け止める。いつか双葉町で暮らす日を夢見て「役場の人たちは頑張っている。元の町に戻るのは不可能だが、新しい町に生まれ変わってほしい」と願う。

   同町の死者・行方不明者は176人(総務省消防庁まとめ、3月1日現在)。事故で約7100人の町民が県内外で避難生活を送り、年々人口が減っている。同町は町民の帰還を目指しているが、昨年の町民アンケートで「戻りたいと考えている」と答えた人は10・8%にとどまる。

   多数の犠牲者を出した東日本大震災から10年が経過した。被災者の多くは立ち上がり、もっと生きたかった人たちのあしたを生きている。一方で避難者は4万1241人(復興庁まとめ、2月8日現在)。行政が復興や地域の発展に尽くすことは、まだまだある。

   東胆振の住民も18年9月に大地震の恐ろしさを痛感した。日本のいつ、どこでも大災害が起きる可能性がある。過去の経験を生かし、できる範囲で防災を考える。いざという時に大切な命を守るため、備えることが減災や死者の減少につながると信じたい。(室谷実)

  (終わり)

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