10日午前、岩手県釜石市を出発し、同県宮古市へ向かった。2011年5月に苫小牧市社会福祉協議会の職員が、宮古市社協で支援活動する取材をして以来、約10年ぶりの訪問。当時は市街地を黒い津波が襲う写真を見て衝撃を受けたが、今はJR東日本と三陸鉄道が乗り入れる宮古駅周辺で住宅が再建されていた。
宮古市社協で有原領一総務課長(44)が迎えてくれた。東日本大震災発生2日後の11年3月13日に開設した市災害ボランティアセンター(以下ボラセン)で活動し、苫小牧市社協の職員と一緒に働いた人だ。
ボラセンの開設当初、全国から寄せられた救援物資の仕分けや、避難所の応援が主な活動だった。同4月以降、がれきや泥の撤去などを市民から依頼されるようになり、同6月に苫小牧市社協の有志が側溝のふたを外す道具を寄贈した。
同9月10日までボラセンが稼働。約2000件の依頼に対し、国内外からボランティア延べ1万8000人を受け入れた。その後も同市で台風災害が発生した際、迅速に災害ボラセンを開設し、震災の経験を生かしている。
同市の死者・行方不明者は569人(総務省消防庁まとめ、3月1日時点)。震災関連死は55人(復興庁まとめ、20年9月末時点)。
震災から10年を迎え、復興が進む市の現状について、有原さんは「ハード面は復旧しているが、経済的に困窮している人もいる」と厳しく受け止める。生活に困っている人などに対し「福祉のサポートを続けたい」と力を込める。
同日午後に同市北部の田老地区を訪れた。10年前に総延長2433メートル、高さ10メートルの防潮堤が損壊した光景を目の当たりにした場所だ。現在、海側の第一線堤(高さ14・7メートル)1248メートル区間の整備が続いている。陸側の第二線堤(同10メートル)は12~16年度、1070メートル区間で約1メートルのかさ上げ工事が行われた。
同地区で宮古観光文化交流協会の学ぶ防災ガイド、元田久美子さん(63)に話を聞いた。12年4月から田老地区を訪れる人たちを防潮堤や津波遺構「たろう観光ホテル」などに案内し、津波の恐ろしさや地域で暮らす人たちの思いを伝えている。
震災前の同地区は防潮堤の周辺に住宅街を形成していたが、震災によって被災した住民が北東約1・5キロ先の高台に移転した。中心部に道の駅や野球場などが新設され、コロナ禍以前は音楽イベントが開かれるなど、若者らが集まってにぎわっていたという。
津波で市内の自宅が流され、義母(88)が行方不明という元田さんは「命は一つしかない。海沿いで津波が発生したら、1分1秒でも早く避難をしてほしい」と強調。いつ起こるか分からない災害に対し、普段から心のどこかで意識する大切さを教えてくれた。
(室谷実)